第Ⅲ章 確認調査の記録
1.確認調査の方法
小値賀町教育委員会には小値賀島の北東に位置する唐見崎の野崎島に面した地点、小値賀町前方郷唐見崎小字松之下・吉野浦地先公有水面海底通称ツボアテ、あるいは通称「山見」の海底で1992年に地元の海士により引き揚げられたタイ陶器壺や陶製臼など6点が届けられていた。
確認調査の目的はタイ陶器が採集された山見神海底遺跡の遺物の分布範囲を調べ、遺跡から出土する遺物の組成、産地、年代を知ることであった。確認調査の性格上、サンプルとして遺物の回収は限られた破片数となり、その数は87点(個体数85)となった。また陶磁器以外の遺物資料、例えば船体の一部、碇、バラストとなる川原石群、あるいは大砲といった船に装備されていたと想定可能なもの、軍船あるいは商船か、国内を含めて中国船かあるいは西欧の船舶なのかといったこれらの疑問に対しては今回の調査では十分な資料が得られなかった。しかし野上は「回収遺物に関する考察」のなかで陶磁器の年代、大量出土の同一器種、限定された遺物の分布範囲から沈没船の積荷の可能性を述べるとともに、その積荷から船が小値賀島に来る以前の商業活動や船籍まで言及している。
今回の調査では1992年に遺物が引き揚げられた地点を広く含む区域100×100mの範囲が山見沖海底遺跡として小値賀町教育委員会により1/2,500の地図に印されており、確認調査区域を比較的狭い範囲に絞り込むことができた。調査区の設定には、予め遺物の発見が予想される場所を前回引き揚げた遣物の位置付近として、調査区域のほぼ中央に南北方向のベースラインを海底にロープを用いて設置し、このベースラインの両側の海底(陸地及び沖側)で遺物確認を行うことにした。調査区は先ず南北基本ラインである距離100mのベースラインを海岸線とほぼ平行に岸から約100m沖合の海底に設置し、それぞれの端に径20mmのオレンジ色のブイを印につけ、潮位に影響を受けず、海面に常時現れるようにブイロープの長さを調整して海面に設置した。調査区域は南端より警戒船をゆっくり北東に進め、前回の遺物採集地点と考えられる地点を含む区域を確認調査対象区城にして、ブイを投入した。調査区を示すベースラインのロープの北端と南端となるブイの位置は警戒船のDGPS(全地球測位システム、補正機能付)使って、その位置を測った。DGPSによる北端のブイの位置は33゚12.220′、129゚06.013′、南端のブイは33゚12.192′、129゚05.965′を測った。また南北2点間ブイの距離は102.915mとなった。しかし海底で設置したロープは補正して距離100mにした。海底のベースラインは真北より約36.5゚東へ偏している。海底に設置したベースラインとしての距離100mロープの北端は今回の確認調査区域の基準点とした。この基準点は鉄釘を岩に打ち込んで、これを基準杭とした。この100mのベースラインには10m間隔に距離を印して、ロープに付けた。基準点(0,0)の北側にベースラインをさらに20m延長して、調査区の北側に広がりをみせる遺物の範囲を記録した。さらに基準点より東西方向にもそれぞれ30mの距離を延ばし、東西方向の遺物範囲の広がりに備えることにした。調査で遣物を確認した場合には、その位置が海面に待機している警戒船の乗員にも分かるように、小さな赤色のブイを掲げることにした。調査区域は南から北へと潮の流れが激しく、調査期間中は殆どこの激しい流れは収まらなかった。そのため調査は南端を印したブイ地点(0,100)から潜水を開始して、海底を目視しながら調査区の北側へと移動した。
遺物の分布状況は海底で確認した遺物をサンプルとして意識的に回収したため「Fig.4 遺物回収地点位置図」はこの海底遺跡の遺物の分布状況を正確に反映していないが、分布していない地点を含めて以下のことが言える。ベースラインに沿って60mから100mの間では遺物は殆ど確認されなかった。60mから80m付近では岩の底質で、80mから100m付近は砂の海底に岩が点在する。60m付近より北側では、底質も砂から岩に変わり、40m付近からは岩が密集する状況になる。60m付近から沖側10m、陸地側20mの範囲に遺物も薄く分布し始める。ベースライン北端の基準点(0,0)を中心に半径10m以内の海底は岩礁が密集して、遺物も集中していることが確認できた。匝川又した全遺物87点のうち、84点はこの集中した範囲からのものである。基準点より北側20m付近までが遺物が確認できる範囲である。それより北側の海底は砂地となり、海底面では殆ど遺物は確認できない。今回の遣物ではタイ陶器・土器が74点で、そのうち、2点は他の長頸壺や四耳壺と同一固体であるため、計72点がタイ産となる。中国産陶磁器は8点、その他土器類が3点ある。しかし3点のうち、2点はベトナム産の可能性のある遺物である。また他の遣物と年代の異なる肥前磁器2点が回収されている。しかし今回行った調査区では所謂西欧関係の遺物は確認されなかった。限られた回収遺物ではあるが、西欧諸国の船舶はこの海底遺跡とは結びつかないであろう。中国あるいは日本の船舶の可能性が大きいと思われる遺跡である。
2.回収遺物
陶器、土器、磁器が確認され、計87点回収されている。目視調査の後、簡易的な測量を行いながら回収したものであり、その回収量の比率は製品の比率をそのまま示すものではない。遺物の種類を把握するためのサンプルとして回収を行ったものであり、年代を特定しやすい中国青花製品などを重点的に回収しているからである。目視調査の範囲では、壺類が大半を占めていることが確認された。その中でもタイ産と推定される四耳壺が最も量が多いと思われる。
以下、遺物の種類ごとに説明していきたい。
1)陶器
1.タイ陶器
壺(1~17)、鉢(18~31)、足付臼(32~33)、蓋(34)が確認される。壺は回収遺物の中で最も多い器種であり、鉢はそれに次ぐ。
1~17は焼締陶器壺である。多くは四耳壺と思われる。1~5は口綾部を含む破片、6~10は肩部あるいは胴部の破片、11~17は底部を含む破片である。残念ながら全体形が復元できるものはないが、口線形態などは頼伸一郎氏の分類によるⅢ型式あるいはⅣ型式に類似する。氏はⅢ型式の年代を16世紀第4四半期と推定し、Ⅳ型式は堺環濠都市遺跡の慶長20年(1615)の焼土層から多く出土するとする(續1989、p129)。そして、生産地としてはタイのノイ川流域の窯跡群が知られる。その中のプラ・プラーン窯跡が発掘調査されており、森村健一氏は堺環濠都市遺跡などで出土するタイ四耳壺などはプラ・プラーン窯跡の出土品と酷似するとしている(森村1989、p146)。また、当海域で回収されたタイ産四耳壺と類似した製品が出土している沈没船資料としては、セントヘレナ島沖で1613年に沈没したヴイテ・レウ号、フィリピン沖で1600年に沈没したサンディェゴ号、タイ湾で16世紀末~17世紀初に沈没したと推定されるコー・シーチャン1号沈船など少なくない。
1(PLs.25・26)は他の壺と比べて小振りであり、肩部の張りもない。口緑部はやや外反した玉線状を呈する。頚部と肩部の間に凸線がめぐる。把手が2箇所残っており、斜め上方に向かって張り付けられている。外面と内面の口部付近は茶褐色を呈し、胎土は灰色で中央部は薄赤紫色を呈する。
2(PLs.27・28)はⅢ型式に類似するが、口綾部がやや外反しており、Ⅱ型式にみられる断面「コ」宇状の口緑部の形状を残している。頚部と肩部の間に明確な凸線がめぐり、肩部には3条の沈線がめぐっている。把手が一つ残るのみであるが、直立するように貼り付けられている。外面は赤みがかった灰色を呈し、内面には黒い小斑点が浮かぶ。胎土は目が粗く、赤褐色を呈する。
3(PLs.29・30)はⅢ型式に類似する。口緑部はほとんど外反せず、玉緑状の口縁への過渡期の製品とされる。頚部と肩部の境に凸線がめぐり、肩部には3条と5条の沈線が2段にわたってめぐる。外面は灰白色、内面は赤みをおびた灰褐色を呈する。外面には黄白色のものがかかる。胎土は薄赤紫色であり、外面に近い部分は灰色を呈している。
4(PLs.31・32)は玉線状の口綾部を有するⅣ型式に類似する。頚部と肩部の間に凸線がめぐり、肩部には4条の沈線がめぐっている。把手は付け根の一部が残る。内外面に黒い小斑点が浮かぶ。胎土は薄赤紫色であり、外面に近い部分は灰色を呈している。
5は玉線状の口緑部を有するⅣ型式に類似する。把手は付け根の一部が残る。頚部と肩部の境に凸線がめぐり、その凸線に接するように3条の沈線がめぐる。外面及び内面口部付近に黒褐色釉がかかり、内面には黒い小斑点が浮かぶ。胎土は目が粗く、赤みをおびた灰色を呈する。
6(PLs.33・34)は胴部上半部から頚部にかけて残っている。把手は付け根の一部が残っている。頚部と肩部の境に凸線がめぐり、肩部には3条の沈線がめぐる。外面は黒褐色釉がかかるが、釉が熔けだれている。
7は頚部下部から肩部にかけて残っている。頚部と肩部の境の凸部は明瞭でなく、肩部には沈線が7~8条めぐっている。把手は直立するように貼り付けられている。外面は黒灰色を呈し、黄白色に表面が塗られている。胎土は外面に近い部分は黒灰色、中央部は赤紫色を呈する。
8(PLs.35・36)は胴部中央部から肩部にかけて残っている。頚部と肩部の境の凸線、肩部の沈線ともに不明瞭である。把手はほぼ直立するように貼り付けられている。外面は灰色、内面は赤みをおびた灰色を呈し、把手部は黄白色に塗られている。胎土は精微で赤みをおびたベージュ色、外表面に近い部分は灰色を呈する。
9は胴部上半部から肩部にかけて残っている。肩部には4条の沈線がめぐる。外面は暗灰色で黄白色に塗られている。内面は赤みをおびた灰色で黒い小斑点が浮かぶ。胎土は黄赤褐色を呈し、目が粗い。
10は底部に近い部分の胴部下半部が残っている。外面は灰色で黒い小斑点が浮かび、上部は黒褐釉がかかる。内面はベージュ色に黒い小斑点が浮かぶ。胎土は日の粗い灰色である。
11~17は底部が残る破片である。11(PLs.37・38)は平底で底部外面に焼成時の熔着痕が見られ、内底面には黒褐釉が塗られている。内外面ともに黄灰色を呈する。胎土は自っぽい灰色を呈している。
12は平底で内面に削り調整痕を残す。内底面には黄色を呈するものが塗られている。内外面ともに表面は灰色を呈し、黒い小斑点が浮かぶ。胎土は赤みをおびたベージュ色で目が粗い。
13は平底で内面に丁寧なナデ成形痕が見られる。外面は赤みをおびた灰色、内面は赤紫がかったベージュ色を呈している。胎土は白色土を含む赤いベージュ色を呈している。
14(PLs.39・40)は平底で内面に削り調整痕を残す。内底面には黄色を呈するものが塗られている。内外面ともに赤みをおびた灰色を呈しており、胎土は赤みをおびたベージュ色で、白色土が含まれる。
15は平底で内面にナデ調整痕を残す。内外面ともに赤茶色を呈する。胎土は中央部が赤みをおびたベージュ色を呈しており、白色土を含む。外面に近い部分の胎土は灰色を呈する。
16(PLs.41・42)は平底で内面に削り調整痕を残す。内底面に黄色及び暗褐色を呈するものが塗られている。焼きが甘く、外面は灰色、内面はベージュ色を呈し、内外面ともに黒い小斑点が浮かぶ。胎土は黒色粒を含み、白っぽい肌色を呈している。
17は平底で外底面には熔着痕が残る。内面にはナデ調整痕を残す、内底面には黒褐色釉が塗られている。内外側面ともに赤みをおびた灰色を呈しているが、外底面は赤茶色である。胎土は内面側が灰色、外面側が赤みをおびたベージュ色で白色土を含む。
18~31は焼締陶器鉢である。全体形を復元できるものはほとんどない。体部から口緑にかけて断面S字状の形を呈しており、底面は平底である。口縁形態は大きく3種類に分けられる。一つは口部上面の内側を削り、口部上面に浅い段を有するもの(18・19)、一つは口部上面に稜をもつもの(20)、もう一つはロ部上面に明確な稜をもたないもの(21~25)である。
18(PLs.43・44)は口部上面の内側を削り、口部上面に浅い段を有する。断面S字状に張り出した胴部の部分には明瞭な2条の沈線がめぐる。内外面は灰色がかった赤茶色を呈している。胎土は灰色を呈する。
19も18と同様にロ部上面の内側を削り、口部上面に浅い段を有する。断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐる。内外面は灰色であり、胎土も大部分は灰色であるが、一部赤茶色を 呈する。
20(PLs.45・46)は口部上面に稜を有する。断面S字状に張り出した胴部の部分には1条の沈線がめぐる。内外面ともに灰色がかった赤茶色を呈しており、胎土は灰色~赤茶色を呈する。
21(PLs.47・48)は口部上面に明確な稜を有しない。断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐる。内外面ともに灰色がかった赤茶色を呈しており、胎土は灰色~赤茶色を呈する。
22は口部上面に明確な稜を有しない。断面S字状に張り出した胴部の部分には1条の沈線がめぐる。外面は黒灰色、内面は赤茶色を呈する、胎士は赤茶色を呈する。
23は口部上面に明確な稜を有しない。断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐるが、あまり明瞭でない。外面は黒灰色、内面は赤茶色を呈する。胎土は赤茶色を呈する。
24は口部上面に明確な稜を有しない、断面S字状に張り出した胴部の部分には2条の沈線がめぐる。外面は黒灰色、内面は赤茶色を呈する。胎土は赤茶色を呈する。
25は今回の回収遺物の中で唯一、口緑部から底部まで残っていた焼締陶器鉢であるが、摩耗が激しい。内外面は赤みをおびた灰色であり、胎土は灰色を呈し、黒色粒を含んでいる。
26は内面に轆轤削り痕を明瞭に残したままであり、鉢の底部片ではなく、壺の底部である可能性もある。内外側面ともに黒灰色であり、黒い小斑点が浮かぶ。外底面は黄茶褐色を呈する。焼成は良好で固く焼き締まっている。
27~31は底部片である。27と31と回収後、接合した。内外面ともに赤みがかった灰色を呈しており、黒い小斑点が浮かぶ。胎土は灰色を呈しており、焼成は比較的良好である。
28は外面が紫がかった黒灰色を呈し、内面は薄い赤茶色を呈している。胎土は赤紫色を呈し、白色土を含んでいる。
29は外面が黒灰色を呈しており、内面は赤みがかったベージュ色を呈している。胎土は赤みがかったベージュ色を呈しており、白色土を含んでいる。
30は外面が赤みがかった灰色を呈し、内面は赤みがかったベージュ色を呈している。胎土は赤みがかったベージュ色を呈しており、白色土を含んでいる。
31はすでに記したように27と接合したので重ねての説明は避ける。
32・33は足付臼である。いずれも平底で口部はやや内側に窄まっている。香辛料などをすりつぶすための道具とされており、タイなどでは現在でも使用が見られ、「クロッ」と称されているという。足付臼はタイ国内ではロツプリ遺跡、アユタヤ遺跡などでも出土している。一方、日本国内では出土例は確認されていない。
32は摩耗が激しいが、ロ部外側に2条の沈線が確認される。内外面ともに灰色~黄色を呈する。胎土は灰色を呈している。
33(PLs.49・50)はほぼ完全な形で残っている。口部外側には2条の沈線がめぐり、外側面には十字形の窯印が刻まれている。内外面ともに赤みをおびた灰色を呈する。
34(PLs.51・52)は陶器蓋である。上面中央部の摘みは欠損しているが、付け根の一部が残っている。上面の端部に3条の沈線がめぐり、上面中央部には同心円状の5条の沈線が刻まれている。外面の上面は緑がかった黄土色を呈し、外側面は黒褐色を呈する。胎土は赤紫色で白色土を含んでいる。身の種類は不明である。
2.中国陶器
35(PLs.53・54)は中国南部産と推定される四耳付壺である。肩部が部分的に焼きゆがんでいる。内外面に黒褐釉が掛けられている。胎士は緻密でやや灰色がかった白色を呈している。その他、中国南部産の壺の胴部破片と推定されるものが3~4点確認されている。(PLs.55・56)それらは濃い緑がかった褐釉が掛けられたもの、外面無釉のものなどが含まれるが、外面無釉のものについては摩耗したことで釉が剥がれ落ちてしまった可能性もある。
3.その他
PLs.57・58は壺の胴部の破片である。比較的焼成も良好で固く焼き締まっている。内面にはナデ調整痕が残る。外面は褐色を呈し、黄色を呈するものが塗られている。内面はやや紫がかった褐色を呈している。胎土は綴密で外面に近い部分は暗灰色、内面側はやや紫がかった褐色を呈している。續伸一郎氏の御教示によると、ベトナム産の陶器壺の胴部の可能性があるという。
2)土器・その他
1.半練(ハンネラ)
いわゆるハンネラの土器壺の蓋と身が回収されている。
36(PL.59)は蓋である。土師質で黄褐色を呈する。まだらに黒い小斑点が浮かぶ。
37(PL.60)は身の頚部から上部のみ残っている。口部上面に1条の沈線を有する。土師質で黄褐色を呈する。まだらに黒い小斑点が浮かぶ。
2.その他
38(PLs.61・62)は身の頚部から上部のみ残っている。形状は37と同様であるが、焼成は良好であり、土器というより陶器に近い。口部上面に1条の沈線を有する。内面にはナデ成形痕が残る。外面は灰色がかったベージュ色を呈しており、内面は赤みがかったベージュ色を呈している。胎土は赤みがかったベージュ色であり、内外面ともに黒い小斑点が浮かぶ。
39は移動式竃の一部と推定される。他に移動式竃の一部と推定される遺物が2点確認されている。あるいは同一個体の可能性をもつ。PL.63は煮炊き用の容器の底を支える突起が見られる。PL.64は底部片と思われる。いずれも内外面、胎土ともに黄褐色を呈し、胎土は目が粗く、砂を多く含んでいる。移動式竃は国内では堺環濠都市遺跡(SKT4地点SXOO3)、大坂城大手門地区などで出土が確認されるが、コー・シーチャン3号沈船遺跡などタイ湾の沈没船資料でも確認されている。これに類似した形態の竃は、現在でも東南アジアでは広く見られるものである。カンボジアにおいてはコンポンチャムで生産されており、そこでは野焼きによって生産されている。
40は壺の底部と思われる。土師質であるが、あるいは焼成不良の陶器である可能性もある。摩耗が激しいが、内面に轆轤削り痕が確認される。内外面、胎土ともに赤みをおびたベージュ色を呈しており、黒い小斑点が浮かぶ。
41(PLs.65・66)は器種不明の土師質の土器である。全体形は不明であるが、残存部は半球状を呈しており、摩耗が激しいが、内面には轆轤削り痕が見られる、内外面、胎土ともに赤みがかった黄褐色を呈している。續伸一郎氏の御教示によれば、外面に欠損している部分があり、この箇所に摘みがあったのであれば、ベトナム中部の焼締陶器蓋である可能性も考えられるという。
3)磁器
1.中国磁器
16世紀代の中国青花磁器が4点確認されている。器種は碗、皿、瓶などである。
42(PLs.67・68)はいわゆる饅頭心形の碗で、見込み部分が盛り上がっている。見込みに唐人を描き、高台内には「大明年造」銘が入る。胎土は緻密で白色を呈している。景徳鎮系の製品で年代は16世紀後半と推定される。
43(PLs.67・68)は焼成不良のため文様は確認しづらいが、見込みには花唐草文と思われる文様が入る。高台内には2本の染付圏線が入り、銘の一部が確認できるが読み取れない。見込み中央部はわずかに凹んでいる。景徳鎮系の製品で年代は16世紀後半と推定される。
44(PLs.69・70)は青花皿である。折線状に成形されており、口緑の端部は輪花形に削られている。内側面は縞が入る。そして、見込みには丸に十字を中央に配し、唐草文がその周囲に措かれている。胎土はくすんだ灰色を呈している。景徳鎮系の製品で年代は16世紀前半~中頃と推定される。当海域で回収された中国磁器の中で最も生産年代がさかのぼる可能性をもつ製品である。
45(PL.71)は青花瓶である。頚部から口部にかけて残存する。内外面ともに施釉され、頚部の付け根部分で接いで成形した痕跡が見られる。頚部から胴部にかけては縦の凸線で8つの区画に分けられており、それぞれの区画に花弁文などを措いている。頚部は上から3段に分けて蕉葉文、松文、花唐草文などを描いている。胎土は白色を呈する。景徳鎮系の製品で年代は16世紀後半と推定される。
2.肥前磁器
肥前磁器が2点確認されている。生産年代は19世紀あるいは19世紀以降であり、これまで述べてきた遺物の年代とは大きな隔たりがある。器種は瓶、蓋付碗の蓋などである。
46(PL.72)は波佐見産(長崎県波佐見町)と推定される丸胴形の染付瓶である。内面には削り調整痕が残る。外面胴部に竹笹文が描かれている。胎土は灰色がかった白色である。19世紀と推定される。
47(PL.72)は肥前産の染付蓋である。蓋の摘みの上端部のみ釉剥ぎされている。外面に松文の一部と思われる文様が描かれており、内面に焼成時の熔着痕が見られる。胎土は白色である。19世紀以降の製品と推定される。
4)回収遺物に関する考察
回収された遺物は、水面下5m程度の海底の岩礁地帯に分布していた。潮の流れの速い水域でもあり、海底において遣物がかなり移動している可能性が高く、原位置を保っているものは少ないと推定される。実際に比較的距離が離れたP3とP16で回収されたそれぞれの陶器鉢が同一個体のものであることが回収後、確認された。
回収遺物の推定産地は、タイ、ベトナム、中国、肥前などである。これらは16世紀~17世紀初のなかに収まるタイ、ベトナム、中国の製品と、19世紀以降の肥前産の製品に分けられる。肥前産の磁器は他の製品の年代と大きくかけ離れていることから、後世に水没したものと推定される。また、その量から考えて、沈没船に伴うというよりは船上からの投棄品の可能性が考えられる。あるいは陸地に極めて近い箇所に遺跡が位置しているため、陸上の生活品が流出したものである可能性もある。その他については一括して水没した可能性をもつが、個々の遺物の全てがそうであるかについては確認できない。比較的年代推定が可能な中国青花やタイ産四耳壺の年代をみてみる。中国青花は16世紀前半~中頃の青花血を除けば、16世紀後半を中心としたもの、とりわけ万暦年間頃の製品である可能性が高い。タイ産の四耳付陶器壺については、堺市環濠都市遺跡の出土例と比較すると、16世紀第4四半期~17世紀初のものである可能性が高い。推定年代はいずれも近似しており、極めて限られた範囲に同一形態の製品が大量に確認されることを考えると、沈没船の積荷である可能性が高い。
それでは、どういった沈没船であったのであろうか。まず、積荷の中でも商品と推定されるものからみていく。回収遺物及び海底で確認された遺物の主体となっているのは、タイ四耳付陶器壺である。積荷の商品の主体もその内春物を含めてタイ産の物資である可能性が高い。同じくタイ産と推定される焼締陶器鉢もそれに伴うものであろう。問題となるのは、量的には少ないが、ベトナム産、中国産と推定される製品群である。
すなわち、タイからの物資をその積荷の一部としたことは確かであり、タイから積み出されたものと推測されるが、タイ~ベトナム~中国と寄港しながら、日本に向かったものであるのか、あるいは中国からベトナムやタイなどの東南アジアヘ行って荷積みし、日本に向かったものであるのか、あるいは日本から中国~ベトナム~タイヘと渡り、その帰途沈没したものであるのか、現時点では確証がない。
次に商品ではなく、船上の使用品と推定される製品について考えてみる。一つは足付臼である。これまで国内の消費遺跡で出土した例を知らないため、船上での使用品である可能性を考えることができる。ただし、オランダ商館のあった出島の図には、「クロッ」を使用している調理風景が措かれており(註1)、平戸のオランダ商館などに持ち込まれる商品であった可能性が全くないわけではない。これらの「クロッ」が商品であるのか、使用品であるのか、判断するためには今後はその量が問題となろう。今回の回収遺物を含めて、これまでに当海域では4点引揚げられている。
移動式竃も商品と考えるよりは、船上での使用品と考える方が妥当であろう。船上で煮炊きし、調理するのに適しており、タイ湾などの沈船資料の中にも見られる。前述したように国内の出土例もわずかながらあるものの、商品として積極的に持ち込まれるようなものではないと考える。
よって、現在のところ、船上の使用品と推定される製品はタイ産のものである可能性が高く、乗組員の中にタイ人が含まれていたことを推測させる。今後、この沈没船の船籍を考える上でも重要な資料となろう。
なお、これらの回収遺物については、佐々木達夫(金沢大学文学部)、大橋廉二(佐賀県立九州陶磁文化館)、續伸一郎(堺市立埋蔵文化財センター)、森村健一(堺市立埋蔵文化財センター)の各氏から多くの御教示を得た。
註3
川原慶賀19世紀前半唐蘭館総巻・蘭館調理室図
参考文献
續伸一郎1989「堺環濠都市遺跡出土のタイ製四耳壺」『貿易陶磁研究』No.9 日本貿易陶磁研究会 pp.123-133
森村健一1989「16世紀~17世紀初頭の堺環濠都市遺跡出土のタイ四耳壺一夕イでの窯跡・沈没船の出土例-」『貿易陶磁研究』No.9 日本貿易陶磁研究会 pp.134-151
森村健一1991「畿内とその周辺出土の束南アジア陶磁器一新政権成立を契機とする新輸入陶磁器の採用-」『貿易陶磁研究』No.11日本貿易陶磁研究会 pp.131-169