第Ⅳ章 まとめ
確認調査は小値賀島唐見崎の東海岸に面した沖合約100m、水深約5mの地点でおこなわれた。この海底では1992年にタイ陶器壺や陶製臼など6点が海士により引き揚げられ、教育委員会へ届けられていた。発見された場所は小値賀町前方郷唐見崎小字松之下・吉野浦地先公有水面海底、通称ツボアテ、あるいは通称「山見」とされる地点である。小値賀町教育委員会は遺物が引き揚げられた地点を近世初頭の沈没船遺構と想定し、「山見沖海底遺跡」として登録した。今回の確認調査の目的は山見沖海底遺跡の範囲と性格を明らかにすることであった。
海底遺跡は野崎島に面している潮流の激しい幅約1.5kmの水路にあり、砂地が点在するが、殆ど岩礁性の海底である。遺跡は海岸にほぼ平行して、北東へ長さ約80m、東西幅約30mに遣物が分布している。遺物の多くが岩礁の間に挟まった状態で確認された。また砂地では遺物を殆ど確認できなかったのは激しい潮流のある海底環境では遺物が元位置を保つことが難しかったからと考えられる。
確認調査で回収された陶磁器から得られた山見神海底遺跡の特徴や幾つかの問題点も浮かび上がった。そこで、どのようなものがあるのか少し整理してみることにする。まず遺物が集中している範囲が半径10m程と非常に限られていることである。限定された地点の狭い範囲内にタイ陶器・土器を主体に中国陶器や青花磁器、その他の陶器・土器にはベトナム産の可能性も否定できない遺物が集中していることである。この狭い範囲内の遺物の分布状況が海底に散乱した積荷の状況を表しているとして、この地点が船の沈没位置だと仮定するならば、陶磁器以外の遺物が存在しないのは何故であろうか。さらにもし沈没船が浸水しながらもこの地点で終焉を迎えたとするならば、遺物はかなり広い範囲で確認されてもよいはずである。しかし遺物の分布範囲は狭い区域に限定されているのはなぜであろうか。タイ四耳陶器壺が比較的大形の容器としてその内容物を運ぶ役割を果たし、さらに内容物の重量を抱えた壺を船底に並べて運ぶことで、バラストの代用としたならば、海底で確認した陶器壺の量は決して多いとはいえない。積荷の陶磁器がバラストの役割も果たしたと思える沈没船遺構の例は東南アジアや東アジアの海で発見されている。また韓国の新安出土の沈没船では大量の銅銭がバラストとして使われている。この遺跡では船のバラストが何であるかも問題となるであろう。その他、注目すべき遺物としては陶製臼や移動式竃などの料理器具があげられる。これらは交易品であるより中国青花磁器皿、碗、壺などと共に船上で使用された生活用品であろう。
今回の確認調査では山見神海底遺跡の全容解明には至っていない。今後、広い範囲での本格的な調査が必要となるであろう。しかし、今回の確認調査の成果は小値賀島が近世初頭東アジアにおける海上経済活動の一端を担っていた地理的環境下にあったことがこの調査からも伺えることができたことである。小値賀島は古代から中世、さらに近世へと歴史的、地理的な背景のもとで海上に浮かぶ対外交流の重要基点であったことは海底遺跡を含め、島内の遺跡や多くの出土遺物が物語っている。
小値賀島周辺の海底には碇石などの歴史の解明に貢献できる資料がなお豊富に存在している。その貴重な資料の一つが今回確認調査を行った山見沖海底遺跡であった。