日本における水中遺跡調査の歩み(3)
(7)海底の沈船の調査
「開陽丸」の調査
沈船に対する本格的な水中発掘調査は、昭和49年から実施された北海道檜山郡江差町の「開陽丸」調査が最初であろう。
「開陽丸」は、明治維新の動乱の中にその運命を翻弄された旧徳川幕府の軍艦で、オランダのピップス造船所で建造され、150日を要して日本に回航された当時の最新鋭艦であった。ところが、慶応3年(1867年)に徳川慶喜の上洛以後、急速に高まった倒幕の動き、そして幕府の崩壊へと、時代はめまぐるしく流れ、やがて旧幕臣榎本武揚ら不満分子をして開陽丸の強奪と北海道への逃避行へと展開する。しかし榎本武揚らがようやくたどりついた新天地の北海道江差湾で、「開陽丸」は暴風雪のため座礁し沈没という悲運に会い、海中にその姿を消した。明治元年11月5日のことである。大正7年には、沈没記録を頼りに最初の遺物引き揚げが行われ、海底から大砲が引き揚げられている。
昭和49年から開始された「開陽丸」の調査は、江差町教育委員会が同海域を埋蔵文化財包蔵地として周知化した上で、荒木伸介の指導のもとに本格的な海底での発掘調査に着手した。調査は遺物密集区域に10mのメッシュを組み、堆積した砂泥をエアーリフトと呼ばれる吸引式の排土装置を使用して除去し、水中での実測や写真撮影等による慎重な記録作成を行いつつ、遺物の引き揚げが行われ、最終的には大砲5門、砲弾2,500発をはじめ、3,000点を越える遺物が海底から引き揚げられた(第4図)。これらの遺物は保存処理を必要としており、鉄製品が2%のカセイソーダ溶液で、銅や真鍮の製品は5%のセスキ炭酸ナトリウム溶液で脱塩処理がなされ、皮革製品や繊維製品にも適切な保存処理がなされている。「開陽丸」は、昭和47年に行われた防波堤の築堤によって船体が二分されており、その外港側の調査は終了したものの、残りの船体を留める内港側は、船体にシートをかぶせて現状保存されている。調査報告によれば、船体の三分の二が未調査のままであり、調査の再開と組織的な調査の継続が期待される。
水の子岩の調査
香川県小豆郡内海町の海上に、通称“水の子岩”と呼ばれる岩礁がある。
ここは地元のダイバーたちの恰好のダイビングスポットである。ある日、岡山県立博物館にひとつの備前焼の壷がもちこまれた。器面にはびっしりとカキ殻が付着している。もちこんだダイバーの話では、“水の子岩’’の下、水深20m~40mの場所から採集したという。この発見が発端になり、昭和52年1月に予備調査が行われ、備前焼の完形品や船のバラストに使用したと思われる河原石などが確認された。同年4月には「水の子岩学術調査団」が結成され、本格的な調査がスタートする。遺跡は水深40mという深場にあり、調査に携わるダイバーに潜水病の発生が懸念されたため、現場海域に作業台船を係留し、ダイバーのために減圧カプセルを水中に降下して作業の安全を図る一方、遺物散布の状況を記録するため、作業用の足場パイプを組んで岩場の斜面沿いに降ろして、測量の便を図った。また排土作業にはエアーリフトやジェットポンプなどを利用している。この結果、引き揚げられた遺物は、備前焼の鉢や壷など10器種210点、金属製品や石製品なども含まれていたという。遺物は、調査団の顧問であった鎌木義昌が分析し、これらの備前焼が単一期に生産されたものであること、また一括して岩礁下に散布していた状況から、遺物は遭難した船の積み荷であったろうと推測している。香川県下では、香川郡直島町の直島頼戸の海底から、陶守三郎が昭和15年に二百数十点の備前焼を引き揚げ、「上陸備前」の名で世に知られていたが、それ以来の大量の発見となった。しかしながら、ともに遺物のみの発見に終わり、船体の確認ができなかったのは残念である。
鷹島海底遺跡
昭和55年、文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうち、水中考古学による遺跡・遺物の発見、調査、保存をテーマとする研究がスタートした。
3ケ年計画で実施された同研究は、蒙古襲来の舞台で、弘安4年(1281年)に大暴風雨により歴史的な大被害をうけて元軍が覆滅した長崎県北松浦郡鷹島町沖に的が絞られた。この地は、およそ800年前、蒙漢軍と高麗軍からなる第二次日本征討軍の東路軍と江南軍のあわせて約4,400隻の大艦隊が集結し、沖合を埋め尽くしていた。弘安4年閏7月1日(現在の8月22日)、鷹島沖の元軍に大暴風雨が襲いかかる。その被害状況について『東国通鑑』は、「日本遠征に参加して帰還しなかった者は、元軍(蒙漢軍と蛮軍)10万有余人、高麗軍7千余人」と記す。これを裏付けるように、同海域からは当時の遺留品が数多く出土し、元寇遺跡として古くから知られていた。
研究には学際的見地から、歴史・考古・郷土史の人文科学分野の研究者に加え、船舶工学・水中音響工学・潜水科学等の理工系研究者を加えて実施された。調査は昭和55年8月から実施され、海底の状況を探るためにサイドスキャンソナーおよびソノストレイターといった音響測深機器が導入された。この測定の結果、72地点から海底下の異常反応を検知して、調査ポイントが絞り込まれ、次年度の本格的調査に引き継がれた。翌昭和56年7月、茂在京男を調査団長に、東海大学潜水技術センターのダイバーらを交えて海底調査が行われ、褐釉壷など148点、右製片口や石弾など4点、磚9点などが引き揚げられた。翌57年には岡島神崎免の海岸部を中心に、海岸線にセオドライトを設置し、海岸部から沖合100mの範囲にロープを張り、それを基点として遺物の散布状況をダイバーらに記録させる実験も試みられた。その際に引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片173点、青磁碗1点、碇石10点、石製片口1点、石臼・石弾それぞれ1点である。同研究による調査はこれで終わったが、埋蔵文化財を包蔵する海底は、昭和56年7月20日をもって周知の埋蔵文化財包蔵地として登録されることになった。
昭和58年には同島床浪地区の埋蔵文化財包蔵地内で港湾事業が計画されたため、その事前調査としての海底発掘調査が7月から実施された。調査団長には「開陽丸」の調査を指導した荒木伸介が、また調査員には明治大学考古学専攻生が当たり、水深20数mの海底から完形の褐釉壷や青磁碗などが検出された(第5図)。同地区の海底には厚いシルトの堆積層があり、それをエアーリフトで排土しながらの苛酷な作業であったが、海底の発掘調査としては同海域で初の試みであった。なお、同海域では、昭和63年にも同種の港湾事業が計画されたため、同年9月の予備調査の結果をもとに、平成元年6月から8月にかけて本格調査が実施されている。また平成元年度から3年度にかけて、文部省科学研究補助金総合研究Aによる「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」が、九州大学の西谷正教授を研究代表者として3ケ年継続して行われた。これらの調査では未だ元寇船の発見には至っていないが、木片や船材の一部とみられるものも出土しており、今後の計画的、本格的な調査が期待されるところである。
坂本竜馬の「いろは丸」
昭和63年、広島県福山市走島町宇治島の南方4km、水深27mの海底から一隻の沈船が発見され、坂本竜馬の「いろは丸」ではないかと新聞紙上を賑わせた。記録によると、慶応3年4月23日、坂本竜馬の率いる海援隊が座来した伊豫大洲藩所有の「いろは丸」(160トン)は、備後灘の六島沖の海上で、紀州藩の明光船(887トン)と衝突、機関部に損傷を受け、鞆港への回航途中に沈没した。後にこの事件は、わが国初の賠償問題を提起し、国際法の適用や、航路定則の範となって幕末維新史上有名な「いろは丸事件」として歴史に残った。この船が先に述べた沈船ではないか、「鞆を愛する会」はこの疑問を解決すべく、田辺昭三が主催する水中考古学研究所に調査を依頼した。昭和63年と平成元年に行われた2回の調査では、沈船の中央部から先端部分を検出して鉄船であることを確認し、積載されていた日用什器備品の年代から、ほぼ「いろは丸」と断定しうる資料をえることができた。「開陽丸」と同様、歴史的事件にかかわる船舶が調査によって特定できた貴重な成果である。