九州・沖縄水中考古学協会会報
第2巻・第1号
1991年10月31日発行
佐賀県呼子沖の海底遺物をめぐる覚書 宮武 正登
古来、玄界灘沿岸は、大陸との接点として幾多の文化的・経済的交流が展開した舞台であったことが周知であり、北部九州各地に点在する多数の遺跡に、その具体相を断片的ではあるが窺い知ることが出来る。そして、こうした地中から伝えられてきた先人の交流の歴史は、ようやく今に至って、海底からもゆっくりと、されど鮮やかに語られ始めようとしている。
ここに、佐賀県呼子町の沖合から引き揚げられた、3点の白磁碗(Fig.1)がある。平成2年初夏、同町小友沖の海底で見つかったこの遺物は、発見者である浪口志郎氏(唐津市湊町在住・唐津マリンスポーツクラブ経営)の言を借りれば、「非常に狭い範囲内に散らばる」が如き状態で、岩の隙間に沈んでいたという。かねてから筆者は氏の、近隣の海洋環境の保全と海底の遺物に対する意識の高さに賛意を持っていたのだが、この折の、当該海域における氏の先駆的発見を発端に二周辺の海上交通史の再考が急務であると感じていた。反面、現時点での稀少な史料のみからの考察では、甚だ脆弱な推測を羅列しかねないとの懸念を抱えていたのだが、今回のような発見事例の蓄積の重要性を説かれる林田憲三、石原渉両氏の研究者としての勧めに啓発され、この報告に及んだものである。
さて、問題の遺物発見地点は、呼子町沖鷹島の東方、唐津市七ツ釜の北西の海域に該当し、浪口氏の案内を得て筆者自身も潜水して目にした海底環境は、概そ以下の如くである。この海域は、呼子町小友の友崎から大友海岸一帯にかけての海岸線に沿う浅場の切れ目にあたり、水深15mラインを過ぎると、深度32m前後の砂原の海底まで急傾斜をなして落ち込んでいる。遺物はその斜面上の、水深27m前後の地点に散布していたわけだが、その数m下に広がる砂原を目にした際、まだ猶遺物が埋没している蓋然性の高いことを直感した。しかし残念ながら、海底に露出する遺物を他に採取することは出来なかった。尚、干満時の潮流の影響を受け易い地形によるものか、海底はシルト・浮泥土はそれ程多くなく、やや粗い砂が厚く堆積した状態にある。
遺物は1点が完形で、他の2点は体部に欠損があるものの、槻ね良質な遺存状態にあり、発見段階では表面にフジツボ・海面類がおびただしく付着していたそうで、砂中に埋没すること無く岩陰で歳時を経ていたことが競われる。3点とも法量に大差の無い同一器形で(口径15.4~16.0cm、器高6.3~6.5cm)、ほぼ直立する高台、若干外反する口縁端部、体部下位に丸みを持つといった形態的特徴や、灰色味の強い粕薬が体部下位にまで施され、内面見込み部に沈線を持つ等の様態から、大事府他で出土例を見る11世紀中頃から12世紀初頭にかけて我が国に多量に搬入された白磁碗と見て良いだろう。
そして、こうした数固体の同一器種製品の水没の意味は、当然、荷船沈没の経緯を想像せしめるのではあるが、果たしてどのような背景下に生じた事態であるのか。また事実上そういった事象が生じ得る条件が、往時に存在していたのであろうか。そこで当該海域での海運に関する文書史料を検索してみると、頻繁な船舶の往来が史実として浮かび上がるのである。以下に見ていきたい。
七ツ釜の東方約2.5km、唐津市湊の陸地とは僅かに600m程の隔たりを置いて浮かぶ神集島(地形図中・1)は、周囲約8kmの小島ではあるが、戦国時代以前まで「相良」との表記によって史料上に散見する、寄港適地であった。『頭陀親王入居略記』の貞観4(862)年9月記事には、平城天皇の皇子で、かの空海に師事し出家した真如法(高岳)親王が、「肥前国松揃郡柏島」より唇船に来って渡海し入唐したことが記してある。また、『本朝世紀』の天慶8(945)年7月26日条には、「肥前国松蒲郡柏崎(島?)」に「唐人来着」すとの記述が見え、「大唐呉越船」来航として大事府から朝廷へ報告がなされている。これらのことから、平安時代中頃までには、神集島が大陸との往還の中継地として認識されていたことが推測できる。『万葉集』巻15には、遣新羅使として派遣された秦田麿が「肥前国松蒲郡狛(柏)島亭船泊之夜」に作った7首の歌が纂収されており、8世紀から既にこの島は、渡海基地として位置付けられていたのではあるまいか。
そしてこれは、国家機関レベルでの使節交流の際に限らず、私的交易上においても同様であったことを史料は伝えている。『小右記』の万寿4(1027)年8月30日条には、「松蒲郡所部柏島」に宋の商隊を乗せた船が着岸したとあり、『百錬抄』巻4を見るに9月8日になって、この「太宋囲商客陳文祓」一行への対応に関する会議が、朝廷で開かれていることが判る。従って、同島近辺の海域は、日宋間の貿易航路にも該当していたものと見て大過ないであろう。
また、件の遺物発見地点の西方1km、呼子港への入港部を遮蔽するかのように浮かぶ加部島(地形図中)は、古くから航海の安全祈願が行なわれてきた延書式内社田島神社の鋲座する島としても著名である。『扶桑略記』の廷久4(1072)年3月15日の記事には、京都岩倉の大雲寺僧侶である成尋(当時、書道で有名な藤原佐理の子)が、「肥前國松浦郡壁(加部)島」から「唐人一船頭曽衆之舶(船)」(『元享釈書』巻16の記述により、この船は「宋商孫忠」の所有船であることが窺われる)に乗り込み、入宋果たしたことが記されている。
このように、平安後期でも南島での宋船来着の史料を見ることが出来るわけで、その中間地点近くの海底で、同時代資料である白磁碗が発見されたことの意義は、周辺海域の海事史の探究上、極めて大きいと言って良い。
ところで、上掲の文書史料上に分明である古代末期での盛行な海上交通の事例に比して、宮津湾西岸から呼子・鋲西町近辺の海岸線では、当該時代での海上交易を明示するような遺跡の検出例は、ほとんど皆無に等しいと言って良かった。ところが平成2年12月、農業基盤整備事業に伴い唐津市教育委員会が実施した埋蔵文化財発掘調査によって、同市湊松本遺跡(地形図中)から、時代は下るが鎌倉~室町時代前期頃を中心とする遺構群が検出された。幅約2~3m程の溝(延長約50m以上)によって区画された空間内に井戸、掘立柱建物が配されるこの遺跡からは、常滑焼、備前焼、東播系須恵器等の国内各地の産になる生活雑器と合わせて、青磁、白磁、褐釉陶器等の輸入製品等も多数出土している(尚、今回の報告内容については、平成2年12月27日に実施された同市教育委員会主催の現地説明会資料に拠る)。現在、調査資料の詳細な整理、分析が進行中だが、上記のような内容は、中世村落内での上位階層者の屋敷跡、もしくはこれに付随する集落跡の様相を呈しており、尚且つ海岸線に近接している立地条件とを勘案すると、前述した平安末期以来からの近海での交易による、経済集積環境の存在を想起せしめるものと言えよう。
当時、東松浦群一帯に踏服していた松浦党一族は、宇野御尉荘官として平安期から土着・開発を持続して成長を遂げた領主達であり、その海洋との関わりの深さは夙に有名である。彼らの事蹟を示す関係資料の中で、文永3(1266)年7月29日の日付を持つ松浦一族佐志房の譲状(「有浦家文書」所収)には、房の子息乙鶴に相続させるための相伝の所領が列記されているが、その内の「松浦西郷佐志村潮津留・神崎井輌田」の私領について、「北ハ海ヲ限ル」とし「東ハ湊堺ヲ限ル」との範囲規定が記してある。つまり湊周辺までを東限とする佐志氏所領に、松本遺跡は近接して(或いは内包されて)いるものと把えられるわけで、当時「海夫」と称される多数の海の民を支配する性格にあった松浦氏族と、何らかの関係を有した遺跡である可能性を、今後検討してみる必要があろう。海陸相互の歴史上の空白を補完する新たな材料を、我々は得たことになるやもしれない。
さて、やや冗長にすぎた今回の報告であるが、上記のような陸上での考古・文献史料の間をより密接に結び得る今回の如き発見事例は、今後も増加の一途を辿るものと予測出来る。そしてこうした海底からの一点(片)の遺物に促されて試みる、周辺海洋の歴史的環境の再検証こそが、水中考古なる領域の出発点の一つとして見傲されて然るべきではあるまいか。個々の事例の正当な評価と蓄積の延長線上で、我々の探究する対象は辟然となるものと考えるのである。
海没した陶磁器の島の伝説 塚原 博
『昔、この地に高麗島と言う島があり高麗焼と言う陶磁器を生産していた。この島には島民が信仰するお地蔵様があって、このお地蔵様の顔が赤くなると島に大異変が起きるという言い伝えがあった。ある日、いたずらずきな島の若者が、このお地蔵様の頬を顔料で赤く塗ったところ大地震が起きて沈んでしまった。その後この島の跡は高麗瀬(Fig.1)と呼ばれ、周辺の海底から時折焼き物が網にかかって揚がるのはその名残である』
長崎県五島列島の小値賀島の西約32kmの東海海底にある高麗瀬と呼ばれる隠れ瀬に伝わる伝説である。「お地蔵様の顔が赤くなったら島に異変が起きる」と言い、「そのために沈んでしまった」と伝える伝説が筆者の知見ではこの他に二例ある。一つは大分県別府湾の「瓜生島」の伝説であり、今一つは正確な場所は失念したが鹿児島県の南に連なる島喚群の中にあって、柳田国男の著書に報告があったように記憶している。
高麗瀬の周辺海域からは、古来よく陶磁器が網などにかかって引き掲げられたといい、高麗瀬から引き揚げたと伝える陶磁器も幾つか現存するようである。筆者もそのように伝える資料を二例実見する機会があったが、いずれも中国製の陶磁器であった。この「高麗瀬」の地名起源は「高麗焼」を焼いていたと思われたことにあると思われ、かつ「高麗焼を焼いていた」と思われたのは海中からそのような陶磁器類が引き揚げられたという事実が過去多くあったからだと推測される。
貞観18年(876)朝廷は比羅(平戸諸島)値嘉(五島列島)両島をそれぞれ上近郡、下近郡とし、両郡を合わせて値嘉島を設置し、島司郡領をおいたと三大実録は伝えている。そして、その建議は「近年唐商の来航が増え彼等はまずこの地に至る。ゆえにこの地方は僻遠の地にあるが、我国にとっては極めて重要な地である。」とその理由を述べているが、日支交通史に収録された資料などによっても9世紀中葉から五島列島を含む西海地方に中国船の来航が多かったことが知れる。当然の事ながら彼等が目指したのは鴻臚館に面する博多湾である。平戸市所在の松浦史料博物館は旧平戸藩の遺史料を枢承する博物館であるが、その所蔵資料に享保3年(1718)に作成された「平戸藩瀬戸筋図」がある。これは外国船が長崎に至る航路を記したものであるが、注目したいのは中国船の我国への来航航路である。中国を発した彼の地の貿易船は小値賀島と宇久島の間もしくは小値賀島の南側を通り平戸島の南端志自伎山の沖から南下して長崎へと向かうのであるが、これらの船はその昔博多湾を目指して北上したはずである。1989年(平成元年)5月小値賀町美良島に漂着した、いわゆるボートピープルは、アジア地域の難民が初めて我国の本土部に到達した事件であったが、彼等は中国上海市の沖まで北上して東を目指し航海を続けたという。この航路に関する知識は、9世紀以来経験的に蓄積されたものであると解釈したい。即ち、「平戸藩瀬戸筋図」自体は近世の資料ではあるが、そこに示された航路は、9世紀以来ほとんど変化がなかったものと考えてよいのではないかということである。問題は、この航路筋に高麗瀬が位置していることである。五島列島には16世紀以前の時代に属する遺跡が235カ所確認されていて小値賀町内にはその内102遺跡が分布している(註:昭和59年度長崎県教育委員会調査資料に筆者の調査資料を加えた)。その中で中国・朝鮮産の陶磁器を出土する遺跡は他時代との複合遺跡も含むが36カ所を数える。(Table 1)
1976年(昭和51年)ギリシャ船鎗のタンカー、ゴールデンアロー号が高麗瀬で座礁して沈没し、流出した積載原油が当地方の沿岸に吹き寄せられて甚大な被害を与えたことは今だに記憶に新しい。高麗瀬は大潮の干潮時には二尋程度の水深しかない。東海はお盆を過ぎると凪の日でもけっこううねりが大きくなる。若干でも時化るとすぐに数mの波高となる。そのような時運悪くここを通過しようとする船があればその船は簡単に座礁し、沈没するであろう。そのようにして沈没した船舶の積み荷が周辺の海底に散乱し、それらが時折網にかかって引き揚げられたとしても不思議では無かろう。昔の人々はこの海域から引き揚げられる上質の陶磁器を高麗焼と呼び、数多く引き掲げられたことにより「ここにかって島があって、引き揚げられる陶磁器はその島で焼かれたもの」と考えられ、この様な伝説が生まれたものと推測できる。ただし、『赤い顔のお地蔵様』と何処でどのように結びつき、何時頃発生し流布されたかは浅学の筆者には知る由もない。
小値賀島周辺の海域からいわゆる碇石(Table 2)が六本発見されている。高麗島は幻の島ではあるが、博多湾内に次ぐ碇石(所属時期は今だ確定されたとは言えないが)の発見数と多数の貿易陶磁器の分布は、唐代以後中国の各港湾都市から東海を横断して鴻膿館を目指した中国貿易船にとっては、五島列島の(特に北部の)島々がまさに我国への第一歩を印す土地であったことを物語る証とは言えないであろうか。現在小値賀島町内で出土している貿易陶磁器は11世紀後半から17世紀代の主として同安窯系、龍泉窯系の青磁・白磁および染付が主流を占めるが、他に福建省系、広東省系、泉州系、江南系のものが混在し、ごく僅かだが高麗の象眼青磁も流入している。また、この時期はおおよそ松浦党の祖とされる源久が宇野御厨荘へ検校として下向したと伝える時期(1072)、恐らくは長崎県北部および五島列島をその範囲とした宇野御厨荘内の有力な在庁官人層が在地武士化し台頭し始めたと思われる時期から、徳川幕府が鎖国政策を実施した頃までの時期に当たる。現在のところ11世紀後半よりも遡る時期の資料は知られていないが、三大実録の記事などを考慮すれば今後その様な時期の資料が出土する可能性も否定できない。
国内において水中考古学的調査がなされた例はまだあまり多くないことは周知の通りである。長崎県内でも北松浦郡鷹島沖の伊万里湾における元寇遺跡の調査が知られる程度で、すべてはこれからという状況である。高麗瀬は沖縄海溝からつづく海底谷の辺縁部に張付いた状況の地形にあり、その西側は直ちに-200m付近まで落ち込む急斜面となっている。先に触れたゴールデンアロー号もこの海底谷に落下したものと思われる。古代・中世期にここで犠牲となった船舶もあるいは多くは同じ運命を辿ったかもしれない。また、小値賀町歴史民族資料館所蔵の小田家文書中に、前述した航路を経由したと思われる南蛮船の漂着記録が数件ある。宇久島と小値賀島の間の海底に鉄製の錨が沈んでいるという情報もある。確信を持つには今だ資料不足の感がなきにしも在らずであるが、中国大陸から我国への航路筋に当たる海中に所在する隠れ瀬『高麗瀬』は水中考古学の調査対象地として非常に魅力的であり、周辺海域の探索によって遺物発見の可能性も残されているのではないかと思う。五島列島および平戸諸島、そして松浦地方の沿岸域には多くの遺物が海底に眠っていることが予想される。本協会の今後の活動に大きく期待するところである。
No. | 遺跡名称 | 所在地 | 立地状況 | 備考 |
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1 | 神方遺跡 | 前方郷相津 | 現状畑、散布地 | |
2 | シャラジ遺跡 | 前方郷相津 | 現状畑、散布地 | 寺院址 |
3 | 本城岳城跡 | 前方郷唐見崎 | 現状山林、牛放牧場 | 中世山城 |
4 | 唐見崎里の前遺跡 | 前方郷唐見崎 | 現状畑、散布地 | |
5 | 堀切遺跡 | 前方郷前方後目 | 現状畑、散布地 | |
6 | 薄井之坂遺跡 | 前方郷牛渡 | 現状畑、散布地 | |
7 | 弁財天堂跡遺跡 | 前方郷木場 | 現状畑、散布地 | 寺院址 |
8 | 六方遺跡 | 前方郷前方後目 | 現状畑、散布地 | |
9 | 相津遺跡 | 前方郷相津一円 | 現状人家・畑、散布地 | 縄文~現代 |
10 | 浦の田遺跡 | 前方郷浦の田 | 現状畑、散布地 | |
11 | 浦の田第2遺跡 | 前方郷浦の田 | 現状畑、散布地 | |
12 | MG-11 | 前方郷木場 | 現状畑、散布地 | |
13 | 膳所城跡 | 中村郷城の越 | 現状山林、畑 | 中世城館址 |
14 | 尾崎遺跡 | 中村郷城の越 | 現状畑、散布地 | 13に隣接 |
15 | 丹波節遺跡 | 中村郷城の越 | 現状畑、散布地 | 13に隣接 |
16 | 船瀬遺跡 | 中村郷船瀬 | 現状畑、散布地 | |
17 | 池ノ辻遺跡 | 中村郷船瀬 | 現状畑、散布地 | |
18 | 一念寺遺跡 | 中村郷後目 | 現状畑、散布地 | |
19 | 宮ノ下遺跡 | 柳郷宮ノ下 | 現状畑、散布地 | 縄文と複合 |
20 | 東永田遺跡 | 柳郷東永田 | 消滅 | |
21 | 宮ノ前遺跡 | 柳郷宮ノ前 | 現状畑、散布地 | |
22 | 旧志自伎神社遺跡 | 柳郷宮ノ下 | 現状畑、散布地 | |
23 | 福泊遺跡 | 柳郷福泊 | 現状畑、散布地 | |
24 | 柳平遺跡 | 柳郷柳平 | 現状畑、散布地 | |
25 | 渕田遺跡 | 柳郷渕田 | 現状畑、散布地 | |
26 | 春の辻遺跡 | 柳郷春の辻 | 現状畑、散布地 | |
27 | 上下部遺跡 | 柳郷上下部 | 現状畑、散布地 | 近世と複合 |
28 | 折尾遺跡 | 浜津郷折尾 | 現状畑、散布地 | 縄文と複合 |
29 | 旧綿津美神社遺跡 | 浜津郷八龍山 | 現状上水道水源地 | 消滅 |
30 | 笛吹遺跡 | 笛吹郷町部一円 | 現状人家・畑など、散布地 | 旧石器~現代 |
31 | 榎津遺跡 | 笛吹榎津 | 現状海岸、散布地 | |
32 | 小山の尾遺跡 | 笛吹小山の尾 | 現状畑、散布地 | |
33 | 大久保遺跡 | 笛吹大久保 | 現状畑、散布地 | |
34 | 野崎海岸遺跡 | 野崎郷 | 現状人家・畑、散布地 | 弥生~現代 |
35 | 野首東浜遺跡 | 野崎郷 | 現状砂丘、散布地 | 縄文複合 |
36 | 野首遺跡 | 野崎郷西平 | 現状荒れ地、包含層 | 縄文~現代 |
名称 | 所在地 | 発見地 | 発見年 | 全長 |
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小値賀1号 | 小値賀町笛吹郷 | 前方湾近浦沖海底 | 昭和初期 | 189cm |
小値賀2号 | 小値賀町前方湾海底遺跡 | 前方湾近浦沖海底 | 昭和初期 | 不明 |
小値賀3号 | 小値賀町柳郷 | 納島ハダカ瀬海底 | 昭和47年 | 213.5cm |
小値賀4号 | 小値賀町柳郷 | 納島ハダカ瀬海底 | 昭和48年 | 311.7cm |
小値賀5号 | 小値賀町六島郷 | 不明 | 不明 | 224cm以上 |
小値賀6号 | 小値賀町笛吹郷 | 前方湾唐見崎沖海底 | 昭和60年 | 194.1cm |