九州・沖縄水中考古学協会会報
第3巻・第2号 通巻9号
1994年8月31日発行

マラッカの宝船 石原 渉

マラッカ海峡の底から、英国船籍の「ダイアナ号」が発見されたという情報が飛び込んで来た。時価200億ドル相当の陶磁器を積み、1817年に沈んだ船である。現在、マレーシア政府が調査中と聞く。先頃、筆者はこのマラッカを訪ね、海峡を眺めて来た。

市街は、骨董屋が軒を並べる古都でもある。一軒の店を覗くと、韓国新安沖沈船のものと同じ、元代の青磁皿があり、それも海揚がりの品らしかった。

今、アジア諸国は、海の調査に積極的である。その成果を大いに期待したい。それにつけても、遅々として進まぬ我が国の状況と比較して、唯々、空しさを覚えるのは、筆者だけであろうか。

 

九州文物紀行 常松 幹雄

私は遺跡から出土する土器、何の変哲もない土器で倭人伝を語る日も遠くないと考えている。「そうでも思わんと年中発掘現場にへばりついておれんでしよう」といわれそうだが、それには理由がある。土器の多くは模倣を繰り返しながら変化してゆくが、今日風の創作がいる余地は少なかった要で、我々が時として「すばらしい造形」などといって感心している弥生土器は本来大変なストレスの固まりなのかもしれないのである。また形態的な分布や胎土に含まれた砂礫の分析から土器の生産と消費が通常小平野を単位としていたことも分かってきた。つまりこの壺は糸島で作られたというような地域性も明らかになろうとしているのである。ここでは弥生時代後期に本州方面へ運ばれた北部九州の土器の話をしよう。

この数年、土器の移動をテーマにした集まりに幾度か出席する機会があった。その際、弥生後期、九州の土器はあまり他所へ動きたがらなかったようですねと言われることがあった。こうした集まりには関西方面の人の参加が多いのだが、関西人への対抗心ではなく、学問的動機(北部九州と本州域の土器の関係をハッキリさせて、相対年代の物差しをつくる基礎にしよう!)から今回の企画を思い立った次第である。91年7月、カメラと土器の計測道具を携えて松江行きの夜行バスに乗り込んだ。

第一次調査1991年7月
鶴山遺跡(島根県太田市)出土の壺形土器
隠岐島沖海底採集の壺形土器

第二次調査1992年6月
海運橋遺跡(新潟県柏崎市)出土の壺形土器

第三次調査1993年10月
纏向遺跡(奈良県桜井市)出土の壺形土器

第四次調査1994年2月
カンボウ遺跡(島根県安来市)出土の壺形土器

単身赴いて数時間話を聴きながら資料調査をするだけなので、第~次調査というのは少し大袈裟かもしれないが、それでもいくつかの所見を得ることができた。

このうち北部九州から持ち出されたといえるのは、隠岐島沖海底採集と開運橋遺跡、カンボウ遺跡出土の3点である。旧国名では隠岐、越後、出雲となるので日本海側に偏っているようにもみえるが、纏向の資料は実物にあたっていないし、未報告で解禁になっていない吉備出土の壺があることも付言しておきたい。

本州島域へ運ばれた北部九州の壺

本州島域へ運ばれた北部九州の壺

1. 隠岐島沖海底採集の壺形土器は、1983年11月、松葉蟹漁を操業していた生洋丸の網にかかって引揚げられたものである。水深260mの泥中だったというが、表面にはフジツボの類の生痕が観察でき、内面にシルトが沈殿した部分がスジ状にのこっている。ほぼ完形で高さ49.5cm、底部は不安定な平底である。口縁の屈曲部がせり出し、口頸部よりも胴部以下に重心をおく形状は、遠賀川以東の土器にみられる特徴である。後期中ごろ、二世紀中ばから後半にかけての時期と考えられる。

2. 海運橋遺跡は、JR柏崎駅の北、石川の河口から約2km内陸に入った海運橋の西のたもとに位置している。ここから日本海をのぞむことができる。壺形土器は、1955年、橋の架け替え工事にともなって、川底で発見されたという。見学時の第一印象は、まさに北部九州の土器そのものであり、900kmの距離と、18世紀あまりの時を隔てた邂逅に驚きをおぼえた。河川採集のためか器壁は磨滅していたが、ほぼ完形で、高さ22.7cm、口径14cmの小型品である。底部は、不安定な平底で、同時期の福岡平野出土の土器と並べても全く違和感はないと思う。後期前半の新段階、二世紀前半の時期と考えられる。

3.カンボウ遺跡は鳥取との県境、標高13m前後の低丘陵上に位置する。壺は、谷部の包含層に流れ込んでいたといい、山陰地方の後期弥生土器を伴っている。調査者の丹羽野氏によると、在来の器種に混ざった見慣れない異系統の土器というのが最初の印象だったそうである。壺は口縁部と頚部、胴部下位に分かれており、口径21cm、高さ40cmに復元される。底部は遺っていないが凸レンズ状であったと推定する。後期中ごろ、二世紀中ばから後半にかけての時期と考えられる。

さてここに紹介した資料はすべて壺形土器である。壺がもっとも個性的な形態をしているということにもよろうが、やはり旅する容器は壺に落ち着くということだろうか。口に布や皮をあてがって紐で縛れば、少しくらい船が揺れても大丈夫のはずである。弥生から古墳時代の移行期に庄内式の薄甕や東海系のS字甕が列島内を動いたのとは一味違った意味を見出すべきかもしれない。

倭国あるいは倭人に関する記事は、弥生時代も後期になると古代中国の史書に度々登場するようになる。まず後漢の建武中元年(57)に奴国王は印綬を授けられた。天明年間に志賀島(福岡市)で発見された「漢委奴国王」の金印がそれである。次いで安帝の永初元年(107)、後漢に生口百六十人を献じたとある。さらに倭国大乱をへて卑弥呼の共立にいたる。たとえばこのときの生ロはどこから集められた人々だったのか。私は使訳通じる国々の力関係に応じて供出されたのではないかと推測する。

奈良県東大寺山古墳出土の中平年銘(184~189)のある鉄刀も卑弥呼への下贈品の可能性のある文物である。ここで断言できるのは、これら全てが船で運ばれたということである。もしアクシデントがあれば海に沈んだに違いないこと、そして我々の知らない大変な遺物がまだまだ海底に眠っていることも想像に難くない。

ひとつの壺は、時代背景を重ねることによって様々な情報を発信しようとする。また中味は、厖大、多岐にわたるが、さらに洋上に消えた古代船の軌跡を追いたいと思う。

これら遺物の紹介は、『福岡考古16号』掲載の「本州島域における北部九州の壺形土器」に詳しく、福岡市博物館のミュージアムショップでもお求めいただけます。

 

筑前糸島郡烏帽子島沖海底引き揚げ遺物 山村 信榮

今回報告する遺物群は福岡県二丈町吉井浜在住の釘本伊勢光氏によって糸島郡志摩町烏帽子(えぼし)島沖で採集され、太宰府市宰府の太宰府天満宮文化研究所が所蔵保管する中国産の輸入陶磁器であり、後述のとおり本誌第1巻第3/4号に前原市教育委員会の岡部裕俊氏が紹介した資料と一連のものと考えられるものである。資料紹介にあたっては太宰府天満宮のご高配をいただいた。

Fig.1

Fig.1

資料は中国同安窯系青磁小皿5点、無釉長胴壺1点、大型の褐釉壺1点の計7点である。長胴壺の口縁の一部が欠ける他は完形を保っている。青磁皿は内2枚の内底にクシ描きの文様が見られる。釉はくすんだオリーブ色に近い緑色を呈する。長胴壺は波のあるナデ(ミズビキ)後に下半部分はヘラケズリを施す。底部は設置に難があるほど雑なヘラキリを残す。褐釉壺は肩衝き型で胴部中央は焼成時の歪みのため縦に10cmほどの亀裂が見られる。壺の内外面にはフジツボなどの寄生痕跡が付着するが、青磁皿にはほとんど見られない。陶磁器の組み合わせとしてはD期=12世紀中葉から13世紀前半(山本信夫の区分;1989年)に属す。

検出の状態は釘本伊勢光氏によれば、1993年9月糸島郡志摩町烏帽子島沖の西約10kmの地点で福漁丸、登恵丸の2隻による底引き網漁によって水深約50mほどの海底から魚とともに引き揚げられた。氏によれば1987年に福岡県前原市の伊都歴史資料館に寄贈したものと同じ漁場で揚がったものであるという。87年の資料は中国龍泉窯系青磁碗7、白磁碗1、陶器皿1、と碗の中に付着していた銅銭50枚以上、それら製品を入れていたと思われる竹籠の断片であった。底引き網漁という方法であげられたので特定の地点はドットを落とすようには設定できないが、遺物の状態から、青磁碗に銅銭が内包されたままの状態であったこと、青磁皿はフジツボなどが付着していない、竹籠の断片も回収されたことから、本来は特定の場所に一部の遺物が砂に埋もれ、一部は潮に洗われた状態で、ある程度の現位置を保ったまま水没しているものと考えられる。前回の報告にもあるが寄贈資料の他にも白磁壺、陶器壺などが揚がったことがあるらしい。

改めて遺物の組み合わせをみると多少の白磁を含み、青磁碗には蓮弁文様の様式のものが含まれないことから、これらの資料の時期は鎌倉時代前半期に位置づけられる。海図から遺物が引き揚げられた場所は壱岐水道の深所にあり、潮の流れが最も速い所でもある。この海域のすぐ北側には「バク瀬」「ガブ瀬」の岩礁が存在し、航行には注意を要する海域でもある。烏帽子島は壱岐・対馬航路の途上で目安とされている灯台があり、岡部氏指摘のごとく遺物が存在する箇所はまさに大陸と博多港とを結ぶライン上に載っている。回収された陶磁器は、当時の日本で最も大量に消費された輸入商品の一つで、かなり頻繁に陶磁器を満載した交易船がこの航路を通過したことと思われる。今回報告した資料はその事実を証明する貴重な資料である。

今回の報告にあたり太宰府天満宮の味酒安則氏、木本満氏、二丈町の釘本伊勢光氏には遺物に関する取材に快くお答えいただき、田中克子女史には遺物実測、撮影に御協力いただきました。常松幹雄氏には資料紹介の機会をいただきました。記して感謝申し上げます。