九州・沖縄水中考古学協会会報
第4巻・第2号 通巻12号
1997年8月31日発行
公言と私言 西 健一郎
先日テレビを見ていたら、長崎港内の古い沈没船の探査を放映していた。この際、水中考古学や15~16世紀の考古学の専門家が全く関与していないことに驚いた。事実、発掘の仕方には、専門家ならばやらないことが行われていた。沖縄の与那国島海底の石造物と言われるものの調査にも、専門家が参加していないようで、水中考古学の普及が今一つである証拠とも言えよう。
当協会は発足以来10年を越えるが、協会の財政基盤が大変脆弱であり、発足以来組織的な運営機能に欠けていた。今後は運営委員会を設け、要員には常に協会の運営に参加できる立場と人を選び、協会運営の中心的役割を果たしてほしいと強く望んでいる。
玄界沿岸における陶磁片の漂着 石井 忠
漂着物は「浮く」ものばかりではない。波の作用で沖に沈んでいるものや、河川から流れてくるものも、海岸にあるものは漂着物の中に入れている。「浮く」ものは海流に運ばれ、何万何千キロを旅してくるが、「沈んでいる」ものは陸上から河川を通じて運ばれてくるものか、沖から数キロ程度で、それも海底の状況によって異なるが、比較的近い距離からである。
漂着する陶磁片には水中考古学に関係深い面がある。現在16ケ所を確認している。その場所と簡単な解説をして報告したい。(Fig.1)
- 福岡県遠賀郡芦屋町芦屋浜
- 福岡県遠賀郡岡垣町岡垣浜
- 福岡県遠賀郡岡垣町波津浜
- 福岡県宗像郡玄海町江口浜
- 福岡県宗像郡津屋崎町勝浦浜
- 福岡県宗像郡津屋崎町白石浜
- 福岡県宗像郡津屋崎町曽根鼻
- 福岡県宗像郡津屋崎町津屋崎浜
- 福岡県宗像郡津屋崎町今川浜
- 福岡県宗像郡福間町福間花見浜
- 福岡県粕屋郡古賀町古賀花見浜
- 福岡県柏屋郡新宮町新宮浜
- 福岡県福岡市東区海ノ中道遺跡
- 福岡県福岡市東区雁ノ巣浜
- 福岡県福岡市西区今宿浜
- 福岡県福岡市西区今津浜
1.1978年に古銭が約7千枚(日本銭、渡来銭は宋・元・明銭等)が漂着。その中には中国半両もあった。他に祭祀用鏡、刀鍔や煙管筆の金属製品もある。次いで1979年には近世肥前陶磁器片が漂着しはじめケース数十箱分にのぼった。現在、収集されたものは芦屋町歴史民俗資料館に保存し一部展示されている。古銭類は遠賀川上流からの流出か、古銭の場合は各時代に及んでいる。また芦屋は芦屋千軒と称され繁栄したところで、特に伊万里焼が筑前焼とか芦屋焼と称され、芦屋の旅行商人や諸国商人によって販売されていたので、肥前陶磁が芦屋に集散していったものと関連あろうか。岡湊神社をはじめ町内にはそれを物語る燈籠も残っている。筑前国続風土記には「此海を芦屋洋とて船客の甚おそるる所也」という難所でもあった。それに伴って陶磁器の破損、または沈没船の可能性も否定できない。(Fig. 2)
2.遠賀郡芦屋町と岡垣町との境は矢矧川である。その矢矧川から岡垣の汐入川の間約3キロは自然の砂丘海岸がつづく。以前から矢矧川河口付近で砂採取場があり、砂をふるいにかけて貝や石、陶磁片とを選別し、その砂利類(砂以外の物)は採取場の隅に積まれていたし、一部は道路の横や道に撒いていた。その中にクラワンカ片や擂鉢片が混じり、一部の陶磁家の話題にのぼっていた。この約3キロの海岸を添田征止は1979年以来毎日歩き採集した古代から近代にわたる土器や陶磁器片は数万点にのぼる(破片を入れたミカンコンテナは約80箱になっている。(Fig. 3)特に江戸中後期の肥前陶磁(有田、波佐見系)の完形品390点以上は圧巻である。波佐見で焼かれたと思われるクラワンカは1996年、炎の博覧会の波佐見会場でも展示された。
3.江口側に多く陶磁片が見られた。特に釣川河口から県立少年自然の家の浜には肥前系陶磁片が多く漂着していたが、沖に横堤(波消ブロック)を造り漂着は著しく減少した。旧釣川河口のところに米出しの地名が残っているので、それと関係の可能性がある。釣川からの流出も否定できない。
7.曽根鼻と北九州津屋崎病院の間は、海に突き出るように礫質が長く延びている。この付近から中西弘によって約5千点ほどの肥前系陶磁片が採集されている。現在採集された大部分は津屋崎町教育委員会の方に寄贈されている。
8.津屋崎町の国民宿舎東側は干潮時に砂州があらわれ、そこより中世の瓦器、土師器系、陶磁(四耳壷)、土錘等が地元の人形師・原田誠によって採集されている、完形品もある(Fig. 4)中世住居地の可能性がある。
9.手光今川河口から約300メートル上流のところに今川遺跡がある。今川は河幅が狭く下流部は蛇行し砂丘の遺跡を浸食している。浸食を受けた包含層からの土器片は河口から約200メートルにわたって散布し、遺跡発見の端緒となった。遺跡は1979年に調査され、縄文後期から弥生前期を中心とする遺跡で、出土した銅鏃は遼寧式銅剣を再加工したものであり、他に銅鏨、半抉状勾玉等は韓半島との交流か、関係深い遺跡である。
10.福間町花見の刈目川をはさんで粕屋郡古賀町花見浜(Fig.5)にかけて陶磁片が散布していたが、その後刈目川は人工水路の河道形態を呈し、コンクリート護岸で整備され、陶磁片の流出がなくなった。ここより、見込みの部分に「金玉満堂」の印銘が捺されたもの(Fig.6)や「三槐」「木」は槐の木字のみ残存等の印銘が捺されたものがある。(Fig.7)文字は消えているが四角の印が残っているのもあった。他に碗片、皿等龍泉窯系の青磁片も採集した。(Fig.8) 江戸時代のクラワンカ手も多い。刈目川上流の流出であろう。
12.玄界沿岸一帯が1980年後半海岸浸食で、各地の砂丘が減少。また護岸の崩落が各所であり、その為に沖に防潮堤や波消ブロックを投入したりして浸食を食い止める工事がすすめられた。新宮浜(Fig.9)も、大浸食を受け海水浴場は遊泳禁止となったこともある。現在まで沖に横堤7本を造った。その為に砂がつき浸食は止ったが、潮の流れが変化し、砂利があらわれたところも出て来た。そこからは中世の陶磁片があらわれ、四耳壷片(Fig.10)、碗片等を採集している。
16.今津は中世、博多津に対して新しい湊の意で、今津は中世に宋人が居住し、臨済宗栄西は今津に滞在していた。また誓願寺との関係も深い。勝福寺の西砂丘の古墓からは約200点以上の龍泉窯を中心とする青磁、白磁が副葬され出土している。この今津湊で平井征南は約200点の青磁片を採集している。現在、護岸によって陶磁片漂着はほとんどないという。
以上玄界沿岸の漂着陶磁片について簡単にのべたが、これら漂着陶磁片は次のようなことが推察される。
1 海岸沿いの生活遺跡
2 河川からの流出
3 過去の積荷破損による海中投棄
4 海岸ないし島の浸食か沈下
5 沈没船からの流出
ここで述べた大部分は1か2が考えうるし、1~4までが組み合わされるものもあろう。漂着陶磁については、更に土地伝説、地名、文献、過去の地理的景観なども考慮する必要があろうかと思う。また漂着する陶磁器の破損状況、量も参考になりはしないかと思う。ただ遠賀郡岡垣町で添田征止によって採集されている膨大な陶磁片は、完形品を多く含んでいるため、沖に沈没船の可能性が予想されるので是非とも九州・沖縄水中考古学協会に添田氏の採集陶磁器片等の検討、岡垣海岸一帯の踏査、海中探査の必要をお願いしたいところである。 いま遠賀郡芦屋町から岡垣町にかけての海岸(砂丘)は玄海グリーンラインと称して遊歩道をつくり砂丘が人工海岸となり、特に芦屋海岸の人工海岸化は目にあまるものがあり、自然の砂浜は消滅している。岡垣浜もアオウミガメが産卵のために上陸しているが、遊歩道がつくられ危機にさらされている。グリーンラインの計画は宗像郡玄海町、津屋崎町まで続くルートにもなる。自然破壊が進むなかで、なんとか早急な調査を期待したい。
〔参考文献〕
石井忠『海辺の民俗学』 新潮社 1992
川添昭二編『よみがえる中世(Ⅰ)』 平凡社 1988
津屋崎町教育委員会『今川遺跡』 1980
奄美大島の海底遺跡-倉木崎海底遺跡- 小川光彦
昨年の夏、調査で奄美大島の名瀬市を訪れていた私は、当協会運営委員である池田榮史氏に同行し、同じく奄美大島南西部の宇検村で行われていた倉木崎海底遺跡の調査の様子を実見することができた。宇検村教育委員会の元田信有氏は、1995年の鷹島海底遺跡(神崎港)発掘調査の折りに調査状況の見学にこられ、また、昨年11月に行われた鹿児島県考古学会・沖縄考古学会の第4回合同研究会において、当遺跡の中間報告をされた際にも倉木崎での海底遺跡の状況についてうかがうことが出来た。宇検村は奄美大島(鹿児島県大島郡)の南西部に位置し(Fig.1)、水深80mにおよぶ焼内湾が村奥部にまで入り込み、湾口部北側には周囲約16kmの枝手久島がある。この島と宇検集落からクラキ鼻に至る海岸に挟まれた幅約250~600mの砂と珊瑚礁からなる水深2~3mの約30万㎡に及ぶ浅い海域が倉木崎海底遺跡である。(Fig.2・3)
当遺跡は1994年8月31日、笠利町歴史民俗資料館の中山清美氏らにより確認され、1995年6月22日より28日まで、宇検村教育委員会により行われた確認調査において、水深2~3mの海底で12・13世紀代の中国産陶磁器の散布が広範囲に認められたため、文化庁及び鹿児島県文化課との協議の結果、3カ年の遺跡確認調査を実施することとなり、平成8年(1996)年度は7月23日~8月3日にかけて1万㎡の面積で行われた。
宇検村教育委員会によると、調査は100m四方の範囲の海底に20m間隔でグリッドを設定し(造礁サンゴの発達のため10m間隔では困難である)、海底にて確認された遺物は陸上から光波測器により海面上でその位置を確認し、集中する何点かを一括して取り上げるという方法で分布状況の記録がなされ、4箇所のグリッドを中心に計474点の遺物の採取が報告されている。 遣物は龍泉窯系青磁が242点と最も多く、同安窯系青磁が46点、白磁が30点、また褐釉陶器が144点と、いずれも12~13世紀の南宋時代の舶載陶磁器に限られている事から、交易船(沈没船)の積み荷であるとの見方が強いようである。(Fig.4)沖縄県立博物館の當間嗣一氏によれば奄美大島では3点の碇石が確認されており、1点は福岡市の筥崎宮などで見られるものと同様の形態であり、他の2点は両端部に向かって先細りしない角柱直方型のものであるが、いずれも1本石の碇石である。(Fig.5、鹿児島県考古学会・沖縄考古学会第4回合同研究会資料集)また、2m×2mのテストピットを1箇所に入れたところ海底下約60cmの砂層中からも遺物が出土しており、散布の集中区を重点的に調査したにせよ、まだ大部分が未調査であり相当量の遣物の散布、包蔵が予想され、報告では表採遺物だけでも数千点に上るのではないかとされている。しかし、遺跡全体での遣物分布状況及び周辺海域の様相については、調査日程と海況により未調査であり今後の課題であると思われる。また、水深2~3mと浅いことから、海底面の発掘調査時に於ける調査区域周辺部の土砂(遺物包含層)の崩壊を防ぐためにも、同教育委員会では矢板を打ち込む干拓方式による調査方法も考慮に入れた上で本年度も調査が予定されており、海底遺跡の調査事例の一つとして水中考古学の面からも、また貿易陶磁器史、交易史の面からも成果の待たれる遺跡であり、今後の調査結果に期待したい。