アメリカ大陸地域
この地域の水中遺跡調査は、新しい学問として水中考古学がいま抱えている問題を直視せずして語ることはできない。それは水中考古学の対象が文化遺産としての水中遺跡の保護を目的とするのに村して、宝探し(Treasure Hunting)、あるいはアマチュアダイバーによる沈没船ダイビング(Wreck Diving)などは遺産の盗掘をしばしばともなうからである。しかる結果は遺跡破壊にいたる。
この行為に各国の対応はまだ十分満足のいくものではない。例えばカリブ海地域ではスペインガレオン船アトカ(Atocha)号(1622)の沈没船がフロリダのキーウエスト沖のホーク海峡(Hawke Channel)で1985年に発見され、その財宝約4億ドル相当(270kgの金魂、1200個の銀の延べ棒(1個=31.5kg)、25万枚の銀貨、その他47tの貴金属・宝石類)がメル・フイッシャーによって引き揚げられた。この事件以来宝探しを商業ベースにして会社を経営する人々が増え、その数も今では24社にも達した。その中には専門の考古学者を雇った企業もあり、“文化財の盗掘”に対する社会的な批判をかわすために利用されている水中考古学者もいる。今日350万のアマチュアダイバー人口を抱えているアメリカでは大規模な水中遺跡の破壊に積極的に貢献している人々がその中に存在している事実も忘れてはならない。今日、米国国立公園内で指定され、記録されている水中遺跡は100件近くにのぼる。しかし各国の主権の及ばない公海上の水中遺跡には自国の法律、さらに文化財保護の規制からも逃れて現代の海賊的野蛮な行為が起きている。例えば二、三例挙げるとすれば、セントラル・アメリカ号やワイダハー号がそうである。フロリダ沖で沈没したスペインのガレオン船は、約30隻以上がスペインの公文書館に記録として残っている。それらの沈没船は1940年代から沈没船宝探しとして興味の対象となっている。
1980年代アメリカにおける水中の文化財に対する全体的な動向を評価すれば、先の10年間と比べて社会の関心度が増大したことである。それは1)水中遺跡調査活動に対して限られた専門家達によるのではなく市民達自らの「草の根」運動的なレベルでの啓蒙活動をその第一に挙げられるであろう。さらに、2)アメリカの数多くの研究機関・協会のなかで、水中遺跡調査活動に専門的・経済的にも協力し、全面的に活動を支持する組織が増えつつあることも事実である。3)水中遺跡調査をより科学的な視点で、これまで抱えてきた問題を解決しようとする積極的な動きである。さらに、80年代はアメリカが水中遺跡を“保護する”という自らの立場を明確にしたことであろう。それは1988年に水中の「文化財保護法」(Abandoned Shipwreck Act)が施行されたことに表れた。この法律が1990年代のアメリカの水中遺跡調査活動に対して善き保護者となれるか。さらに、スポーツダイバーをどの程度啓蒙でさるかがこれからのアメリカの水中考古学の課題のひとつとなるであろうことは十分に予測できる。しかしアイロニーはこの年のスキンダイバー誌(Skin Diver)1988年12月の特集記事として“Treasure Diving”、さらに、1989年10月には“Caribbean Shipwrecks”の記事でダイビングの新しい経験として、その面白さを奨励している。アメリカの水中遺跡と水中考古学にはパラドックスな社会的認識がこれに携わる人々を悩ましている現状も見逃してはならない事実なのである。
A-1.北アメリカ大陸地域-アメリカ・カナダ地域
ワイダハー(Whydah)号海底遺跡(図1)
この遺跡は1717年4月26日に沈没したワイダハー号の遺構である。この沈没船はいわゆる“海賊船”として名を馳せた船である。マサチューセッツ州、コッド岬のウエルフリート(wellfleet)の東海岸沖の5~8mの海底で1984年に発見され、86年からワイダハー号共同企業(Whydah Joint Venture)による発掘が「歴史遺跡保護法」(National Historic Preservation Act[NHPA])の106条項の発掘手順、調査・遺物保存方法の規定に従って行われてはいるが、資金の投資者が引き揚げた遺物の売上金の配当を受けることができるなどの商業的発掘である。これに対して考古学者は88年に成立した水中の「文化財保護法」による反対をしているが、この法の厳格な運用がこの州ではなされていないのが現状である。この遺構の本格的な学術的発掘調査が至急に望まれる遺跡である。
デフェンス(Defence)号海底遺跡(図2)
この遺跡は1972年にメイン州のストックトン(Stockton)の港内で発見された独立戦争時に活躍した船で、77年からINAはこの遺跡の調査に参加して、発掘に携わった。発掘の最終年度の1981年には船体の中央部と後部左舷側を調査した。
シャンプレイン(Champlain)湖底遺跡(図3)
この湖はニューヨーク州とヴァーモント州の境にありハドソン川とカナダのセントローレンス川を結ぶ交通の要所である。湖を含むこの地域にはアメリカ独立戦争時代、南北戦争時代の遺跡が数多く残っている。この湖底遺跡は独立戦争時代の沈没船の遺構である。1984年にも調査は続いている。
バーリントン湾(Burlington)湖底遺跡(図4)
この遺跡はシャンプレイン湖のほぼ中央東岸ヴァーモント州側にあるバーリントン湾の水深15mの湖底に立ち上がった状態で沈んでいる。馬の動力を使用した全長19mのフェリー(horse ferry)で、甲板の直下に水平に設置された大きな木製の円盤状の台の上を馬に歩かせ、その動力を中央の歯車に受け、さらにそこから両側に付いたパドル車輪に伝えて走る。この推進方法は1819年に考案された。この遺構は1820~30年代に建造されたと推定されている。今日でも対岸のニューヨーク州のケント船着場(Port Kent)を結ぶ新しい型のフェリーが運航されていて、この地域の重要な交通手段の一つである。遺構は1983年に確認され、その後発掘調査は続いている。
ボスコー工ン(Boscawen)号湖底遺跡(図5)
この遺跡はニューヨーク州シャンプレイン湖南端部に近いタイコンデロガの砦がある近くで1957年に建造され、そこで1763年頃に沈んだイギリスの115t、全長21mの一本マスト(sloop)船の遺構である。遺構は2.1mの湖底で検出された。第一次発掘調査は1984年に実施され船体の約半分が発掘された。遺構にともなう遺物には大工道具、鉄砲の弾、個人の所有物、食料品、マストの付属品の他にHIのイニシャルが彫られたスプーン等がある。85年引き続き調査が行われた。
イーグル(Eagle)号湖底遺跡(図6)
この遺跡はニューヨーク州シャンプレイン湖最南端のポートニー(Poutney)川のホワイトホール(Whitehall)の河口岸に1825年廃棄されていた。1981年に沈没船の遺構が発見され、82・83年と発掘調査が行われた。その間船体の一部が検出された。
ジョンフレーザー(John Fraser)号湖底遺跡(図7)
この遺跡はカナダのオンタリオ州にあるニピッシング(Nipissing)湖マニトウ(Manitou)島とグース(Coose)島の間で1893年火災に遭い水深14mの湖底に沈んだ船の遺構。後部に備え付けられた木製のパドル車輪で推進する蒸汽船である。1985年から本格的な調査が始まり88年まで発掘調査は行われた。
ジェファーソン(Jefferson)号湖底遺跡(図8)
この遺跡は五大湖の一つオンタリオ湖東端で、セントローレンス川への入り口付近にあるサケット(Saket)湾に沈んだ軍用船である。「1812年戦争」で使用された。この船は1814年に建造され、18年にはこの湾で廃船となって係留され、その後湖底に沈んだ。1984年に発掘調査が始まり、水深1.2~3.6mの湖底に船体の側面を下にした状態で検出された遺構である。
アトカ(Atocha)号海底遺跡(図9)
この遺跡はスペインのガレオン船のアトカ号(Nuestra Senra de Atocha)沈没船遺構であろう。“宝探し家”のメル・フィシャー(Mel Fisher,Treasure Salvors,Inc.)により遺跡の発見がなされたが、アトカ号船体の遺存については何ら報告はなされていない。アトカ号は1622年9月4日新大陸植民地から本土のスペインへ向けて、キューバのハバナ港を出航しフロリダ、キーウエスト(Key West)の西方沖に在るマーケサス(Marquesas)群島にさしかかった時にハリケーンに遭い、遭難して沈没した。この沈没船探しは1968年に始まり、71年には多くの大砲、金属、銀貨(1622年以前の鋳造)等の遺物が引き揚げられた。さらに75年にはこの船の所有を示す青銅製の大砲が1門発見された。82年、85年には多量の金魂を発見するにいたった。
セントラルアメリカ(Central America)号海底遺跡(図10)
この遺跡はノースカロライナ沖の大西洋に張りだした大陸棚の先端に近い海底で水中ロボット探査機で沈没船の遺構の存在を確認した。遠隔操作によるテレビモニターは遺物のなかに金塊の存在を確かめ、その回収を行っている。“宝探し”を目的とした調査である。南北戦争以前にカリフォルニアの所謂ゴールドラッシュで金の採掘が盛んになり、金塊をこの船で東海岸へ輸送途中、この海域で遭難沈没した。
モニター(Moniter)号海底遺跡(図11)
この遺跡は南北戦争の北軍の装鋼艦である。2門の大砲が回転する砲塔をデッキに乗せた軍艦で、南軍の装鋼艦メリマック(Merrimack)号をハンプトンロード(Hampton Roads)で撃沈させた。モニター号はノースカロライナ州ハッテラス(Hatteras)岬沖で嵐のために1862年に沈没した。1973年に沈没の位置と海底70mに沈んでいる船が確認された。77年には調査が始まり船体が逆さま状態であることが判明した。79年では考古学者を含めた潜水艇を利用した調査であった。87年には潜水艇による詳細な写真実測が行われた。
ハミルトン(Hamilton)号湖底遺跡
「1812年戦争」に活動した沈没船の遺構である。ニューヨーク州のオンタリオ湖の湖底に沈んでいる。
スクレージ(Scourge)号湖底遺跡
「1812年戦争」に活動した沈没船の遺構である。ニューヨーク州のオンタリオ湖の湖底に沈んでいる。
“ブロッサムフェリー”(“BloSSom's Ferry”)川底遺跡(図12)
この遺跡はノースカロライナ州ウイリミントン(Wilmington)を流れているノースイースト・ケイプ・フェアー(Northeast Cape Fear)川のキャスルハイン(Castle Hayne)で発見されたフェリーの遺構である。フェリーはこの川を渡るための交通手段として利用された。アメリカ独立以前のこの地方のプランテーションへの入植者の交通手段としてのフェリーサービスが1730年代に確立する。遺構の調査は1981年に始まり、複合遺跡であることが確認された。川底には2隻の木造の平底を持つフェリーが狭い範囲にわずかに隔たってあり、船体の遺存状態は良好であった。18~19世紀にかけてこれらのフェリーは使用されていた。発掘調査は82年、83年に行われた。
ペンブローク・クリーク(Penbroke Crook)川底遺跡(図13)
この遺跡は植民地時代の港湾都市で、プランテーション入植者の人々にとって新大陸の中南部の門戸として発展した町の山一つであるエドントン(Edonton)にある。水中遺跡はノースカロライナ州エドントンヘ流れ込んでいる川ペンブローク・クリークの川底で、調査は1980年に始まり、川底に40カ所程の異常反応が現れ、そのうち1/4は現代の廃棄物であったが、2カ所で木造船と思われるものを発見し、これら反応の地点で確認調査が行われた。その河口で沈没した船の船体が確認され、発掘調査が行われた。1750~75年のアメリカ独立前に属すると思われる船の船体は長さ31m、幅8.4mを測る。川の透明度は良好ではなく、1mの鉄柱で船体の側壁に沿って地底に突き刺しながら船体の全輪郭がプロットされた。厚いシルトに発掘調査は困難であった。この遺構にともなう遺物にはレンガ、建築材のバラスト、また船底の近くで砲弾が4点検出された。沈没船の船名などは不明。
フォウェー(Fowey)号海底遺跡(図14)
この遺跡はフロリダ、マイアミの南東に位置し、南北に延びる砂州、エリオットキー(Elliot Key)の東方の沖約1.8kmの海底にある。この地域はビスケイン国立公園(Biscayne National Park)内のリガレアンカレージ(Legare Anchorage)にあり、この名前の由来は1855年にこの海域の海図作成に従事した船の名前である。遺跡は米国合衆国国立公園局南東考古学センター(United States National Park Service's Southeast Archaeological Center)によって水中文化財として指定・登録された遺跡(The Legare Anchorage Shipwrek Site,BISC-UW-20)である。フォウェー号は1744年にイギリスで建造され、1748年にはこの海域で沈没している。公園管理局による1983年調査により海底の沈没船の船名と海底遺構の同定が行われ、遺構は遺物の年代・機能・文化的所属、さらにこの船の船長の沈没位置の記述と一致することが確認された。遺構は水深7.8~9mの砂と海藻で覆われた海底にある。遺構の調査は1980年より遺構全体の写真撮影に始まり、遺構の中心、長軸を決定し、軸に従って、810㎡の遺構全体にロープによる3×3mグリッドを90区画設置し、それぞれの区画を写真に撮り、海底直上面にある、原位置を留めていないと思われる遺物は引き揚げられた。
ショーアル(Shoals)沈船海底遺跡(図15)
この遺跡は北部ニューイングランド、ニューハンプシャー州の東約10kmのメイン湾、複数の島からなる。この島の最も大きい島ダック(Duck)島の水深8~9mの海底で沈没船が確認され、1982年から調査が始まり、83年~87年と調査は続いている。
ムスタング(Mustang)海底遺跡
この遺跡はテキサス、南部のメキシコ湾に面したコーパスクリスティー(Corpus Christi)の沖に南北に連なる砂州の一つのムスタング島で出土した木杭を規則的に刺した筏である。この島の海岸で1980年にハリケーン“Allen”がテキサスを襲った時、この遺構が砂丘の中から出現した。1985年に発掘調査が行われ、磁気探知機を用いて遺構の状況、艶囲を調査した。筏の遺構は大きく3遺構に別れる。一番大きい遺構の規模は11.58×10.66mを測る。筏は南北戦争時(1861~65)の北軍の軍事用の筏(“anti-torpedo”)である。南軍は自軍の港を北軍の侵入、攻撃から保護するため爆薬を仕掛けた機雷(“torpedo”)を港の底に沈めた。それに対して北軍は港への安全な侵入のために筏を船の前に設け、機雷原を突破するために使用されたものである。
ミシシッピー(Mississippi)川底遺跡
この遺跡はミシシッピー川を利用し、人、物資を南部、北部地域に運送した船(外輪船、船首や船尾の平らな船、両端の尖った船)が存在し、この川で活躍した。1987年のアメリカの夏は雨が少なく、川の水量はいつもの年より少なく川の水位が下がり、川底が露出する所が続出したため、川底に沈んでいた船の船体の一部が発見された。これは考古学アーカンソー支部による発掘調査が1987年から行われている。
ノーラ(Nola)号海底遺跡(図9)
この遺跡はバーミューダ島の北西、最も近い島から沖約2km、水深約9mの珊瑚に囲まれた砂地の海底に沈んでいるノーラ号(1863)の遺構である。アメリカ南北戦争当時の南軍所有の船で、北軍の海上からの経済封鎖を打破し、南部の生命・生活を維持する目的で英国で建造された。これまでの大西洋を航海する船と比較すると、速力(18knt)をだし、船体は軽量で細長い(10:1)構造をしていた。しかし燃料用石炭の積載能力は低かった。これら南軍の船は、中立の立場のキューバ、バハマ諸島、ノーバスコシア島あるいはバーミューダ島を利用してヨーロッパからの輸入物をこの海域でこれら船脚の速い船に積み換え、北軍の封鎖海域を突破した。ノーラ号はスコットランドのグラスゴーの造船所で1863年に建造され、船の両側に推進用のパドル車輪を持つ蒸汽船である。1982年、86年に調査が行われ、遺存状態は良好で80%にも達する。
マリーセレスティア(Mary Celestia)号海底遺跡(図10)
この遺跡はバーミューダ島の南西の沖約1.5km、水深約18mの海底にある。遺構は約1mのシルト層に覆われている。アメリカ南北戦争当時の南軍所有の船で、北軍の海上封鎖を打破し、生活物資を南部に供給した。1864年にこの近くの浅瀬に乗り上げ沈没した。1986年に調査が行われている。
ヴィクスン(Vixen)号海底遺跡(図11)
英国で1864年に建造されたスクリューで推進する初期鋼鉄船で、1873年にこの地でその役目を終える。この遺構は世界の船舶史を考えるうえで重要な資料の船である。遺跡はバーミューダ島の最西端のダニエルズへッド(Daniel's Head)から0.4km沖の珊瑚礁に挟まれた狭い水路の深さ10.7mの海底で良好な遺存状態にある。この遺構は1986年から本格的調査が始まっている。
シイベンチサー(Sea Venture)号海底遺跡(図12)
この遺跡はイギリスから新大陸の植民地への入植者を乗せて1609年にプリマス(Plymouth)港を出港して、バージニアのジェームスタウン(Jamestown)へ向かう途中に嵐に遭いバーミューダ島を形成している北東にあるセントジョージ島の沖で1609年に沈没した300tの移民船である。この遺構の発掘調査は1958~59年に始まり、さらに1978~81年に第2次調査を行い、続いて1982年~84年と調査が行われ、沈没船の船体の遺構の発掘調査とそれにともなう遺物が検出された。引き続き発掘は続いている。出土した遺物はバミューダ海洋博物館(Bermuda Maritime Museum)に展示されている。
レッドペイ(Red Bay)海底遺跡(図16)
この遺跡はカナダ、ニューファンドランドのセントジョーンズ(St.John's)島の北に位置するベルアイル(Belle Isle)海峡の入口近く、北岸のレッド・ペイの海底で発見された16世紀のガレオン船である。この海域では複数の沈没船の発見が1978年に報告されている。この海域は捕鯨漁に適した所として、イギリス、フランス、ポルトガルからの商業捕鯨活動が盛んであった。この遺構は1979年から発掘調査が始まり84年まで続けられている。船体の遺存状態は良好で、その船体の部材の引き揚げに重点がおかれている。つまり船体復元(船体構造及び技術)のために詳細な考古学データの収集を可能にする遺構の発掘調査方法と技術の開発、さらに船体の部材を小さなブロックごとに引き揚げるのではなく、あらゆる部材を海底で解体し、それと同時に船の建造過程の様相と精密な造船手続きの解明を海底において行うことを調査目的とした。そのために海底での船体の小区域ごとの解体は、その作業前に遺構の写真投影、ビデオ撮影、平面および断面実測が行われた。写真撮影(Photomosaics=グリッドごとに遺構の小区域写真を撮影、それを繋ぎ合わせて遺構の全景写真とする)を船体の①上部構造、②船内の床部、③外部構造部に従ってする。それに船体の各部材の実寸のトレースを行う。このようにして船板の部材3,000個以上の木片にタッグが付けられた。それ以外にも数千の船体の小さな部材片があった。これらは記録はされたが、実測にはいたらなかった。
A-2.カリブ海地域
この地域はコロンブスによる1492年の新大陸発見地となった。その後1504年まで4回にわたりこの海域に航海しカリブ海諸国をスペインの植民地とした。コロンブス第一次航海(1492~3)では、サンタマリア号(遭難)を含む3隻、第二次航海(1493~96)は、17隻のほかに4隻、第三次航海(1498~1500)は6隻のほかに30隻、第四次航海(1502~4)にはキャピタナ号(遭難)、サンチャゴ号(遭難)、ガリエガ号(遭難)、ビスカイナー号(遭難)4隻と、コロンブスのカリブ海地域への航海を続けた4回の期間(12年間)にこの地域へ航海した船の数は64隻にのぼる。この間にコロンブスが自ら航海に使用したカラベル船やナオ船の9隻をこの海域で失っている。これらの事実からこれらの沈船の発見が今や重大な関心になっている。
1492年コロンブスによる新大陸発見から数えて1992年はその500年目にあたる年である。アメリカでは1984年に政府レベルでコロンブス新大陸発見500年祭(Quincentennial)を祝うためのクリストファー・コロンブス500年記念委員会(Christofer Columbus Quincentenary Jubilee Commission)が発足し、祝賀事項に関する法案もアメリカ議会を通過し、これによりアメリカ国内ではコロンブスに関するあらゆる国際会議、催し、国際調査を計画した。スペイン系の人々による委員会も設立され、さらに母国スペインでも1992年に向けての動きが始まった。大学や研究機関、さらに報道機関も500年祭の独自の企画を計画した。このような動きにカリブ海諸国も関心を示し、経済的効果を狙った観光事業や数々の催しが計画されている。カリブ海地域の歴史的環境はアメリカの研究機関を巻き込んだ多くのコロンブス船発見プロジェクトに人々の興味の深さを感じる。そして1992年に向けて多くの発掘調査がこの海域で行われている。
ジェノヴェーサ(Genovesa)号海底遺跡(図1)
1730年に沈没したスペイン船でジャマイカのペドロ浅瀬(Pedro Bank)約6mの海底に沈んでいると思われている。1981年にINAによって調査が始まった。磁気探知機(Magnetometer)を使用して異常反応があった4カ所の地点からは大砲、錨、クギ、マストのリング等が発見された。その内1カ所からは船のバラストが長さ30mにわたって堆積しているのが確認された。82~83年引き続き調査が行われている。
ポートロイヤル(Port Royal)海底遺跡(図2)
ジャマイカの南西岸に位置する港町で、1692年6月7日に大地震に見舞われ市街地の60%が湾内に没した。この遺跡は1981年からINAによって調査が始まった。初年度の調査では煉瓦を使用した建物の床が検出され、82年以降毎年調査が行われている。83年にはアルミ製のパージ船(3.6×7.2m)を調査区域の上に据えて発掘調査が行われ、居酒屋、肉・皮革屋、タバコパイプ屋の建物の部屋の一部が検出された。84年には地震当時のライム街の建物(Building 1)、ジェームス砦の一部の発掘調査が行われた。86年には建物(Building 1とBuilding 3)、さらにライム街の歩道一部が発掘された。87~88年には建物(Building 5)、89年には建物(Building 5)の遺構の上で沈没船の船体の一部を検出した。船体の一部は約7.5mのキールの部材である。
モラセスリーフ(Molasses Reef)珊瑚礁海底遺跡(図3)
この遺跡は東カリブ海のタークス&カイコス(Turks and Caicos)島の珊瑚礁の海底6~8mに長さ20m、幅3m、厚さ0.6mに堆積したバラストのマウンドが確認され遺構としての船体の存在を確証するものであった。発掘調査以前にこの遺跡はすでに盗掘を受けていたが船体のごく一部と大砲等の遺物が1982年のINAの発掘調査で引き揚げられた。この年にも商業をベースにした宝探屋によって遺跡が破壊されている。この遺跡からは、1,000点を超す遺物が出土したにもかかわらず年代を決定するに十分な資料がなく、16世紀半ば頃に比定できる沈没船の年代が弾倉装填式の鉄製大砲の型式編年に依っている。尚、国籍や船名などはいまだ明らかではない。石灰化した皮膜に覆われた遺物の検出にはもっとも有効な磁気探査機が使用された。バラストの下から7.7×2.5mの船底部が検出された。この遺跡の発掘調査は83年にも続けられた。84年には沈没船の乗組員が救助されるまでの生活遺構の存在を検証するためにこの遺跡に最も近い西カイコス島で調査が行われた。この島からは80年に1枚のサントドミンゴ銅銭(Santo Domingo)が発見された経緯がある。85年は調査は行われていない。86年に発掘調査は完了する。
カーヨヌ工ボ(Cayo Nuevo)海底遺跡(図4)
この遺跡はユカタン半島カンペーチェ(Campeche)の北西約160m沖のメキシコ湾の珊瑚礁の浅瀬にある。この遺跡は1979年に発見され、青銅製大砲3門、錨が引き揚げられた。その大砲の一つからは遺跡の年代決定の手がかりとなる15□2(□は5の可能性が大きい)の年号が見つかっている。1981年にはINAを中心として調査が始まり、磁気探知機を使って遺跡の状況を確認し、その結果3カ所に遺物の堆積を確認した。エアーリフトを使った試掘がCN(Cayo Nuevo)1地点で行われ、バラスト、青銅製・鉄製大砲、象牙製品、真鍮のピン・蝋燭立て、赤色の陶器が出土した。CN2地点ではスコットランドのキャロン(Carron)社製の1774~75年製造の大砲が出土しており、CN1とCN2は同じ遺跡ではなく複合遺跡である可能性が考えられる。82~83年引き続き調査は続けられた。
バーハムヘレス(Bahia Mujeres)海底遺跡(図5)
この遺跡はユカタン半島の東端沖のユカタン海峡で1958年に地元の漁師によって発見され、60~61年にはメキシコのダイビングクラブ(CEDAM)が大砲や錨を引き揚げている。遺跡は引き揚げられた遺物や海底の遺物写真状況から15世紀後期~16世紀初期のスペインのカラベル船の沈没が想定できるものであった。1984年には遺跡の正確な位置や遺物確認の再調査が行われ、約20mにわたりバラストの堆積が確認された。
ハイボーンケイ(Highborn Cay)海底遺跡(図6)
この遺跡は大バハマ諸島の北方に位置するエグマ(Exuma)群島の一つにある。ハイポーンケイ島北端沖の海底約7mで1965年にアマチュアダイバーによって堆積したバラスト(12×5m、厚さ2m)、石灰質の殻に覆われた大砲等が発見された。翌年の66年と67年にはバハマ政府より発掘許可を得た彼らによって大砲、砲弾、その他の金属品が引き揚げられ、錨も発見された。これらは調査の結果16世紀に属する遺物であることが判明した。1983年にはINAによる再調査が正確な遺跡の確認から始まり、バラストの両端部を取り除く作業を行った結果その下から沈没船の竜骨を含む船体の船首と船尾の部材が確認された。86年には遺構調査区全体にグリッド(2×2m)を設定し、残存する船体の発掘調査、さらに中央部にトレンチを新設して船の主マストのほぞの付いた部材の比較的良好な資料が得られた。
ケイマン(Cayman)海底遺跡群(図7)
この遺跡はいくつかの遺跡から成り立ち、複数の島で発見されている。複数の島はキューバの南232km、ジャマイカの北西222kmのカリブ海のほぼ中央に位置して、ケイマン群島を形成している。この地域ではスペインの陶器、錨、青銅製の大砲等が海底から出土している。この群島では海底遺跡約70カ所で船体や船に関する遺物の存在が確認されている。
リトルケイマン(Little Cayman)島では1979年に海底遺跡(Turtle Wreck)の確認調査が行われ、海亀の漁で栄えた島は、それに関連する遺跡の存在が予想された。島の南側の浅瀬の入江の海底で17世紀に比定できる沈船の船体の一部がバラストに混じって出土した。
グランドケイマン(Grand Cayman)島では1980年に周辺の海底遺跡の分布調査を行い24カ所の地点で沈没船の船体の一部や遺物が確認されている。
アイスラセリトス(Isla Cerritos)遺跡(図8)
この遺跡はユカタン半島の北東端の沖に約500m、周囲約600mの無人島である。しかしB.C.100~A.D.1200には人々が住んでいた。まわりの浅い海には石組遺構が島の南側に約330mの長さにわたって構築されている。1984,85年にメキシコの学者によって調査され、人工的な港の防波堤の役目をしていると考えられている。
A-3.南アメリカ大陸地域
ジェラム(Jhelum)遺跡
これは東インド会社所有の商船(長さ約36m、重量428t)で、1849年リバプールで建造され、1870年フォークランド(Falkland)諸島のポート・スタンレーの港に係留され、港に廃棄された。1983年にはこのジェラム号の調査が行われている。良質な材料を使用した木造の船体は百数十年たった今でも比較的良好な状態である。