F.アジア地域

アジアの水中遺跡調査はヨーロッパや地中海地域での調査活動と比べるとその歴史は浅い。本格的な水中調査の始まりはアジア各国ともほぼ同じ、1970年代の前半である。各国の出土例でみると、日本では江差町沖の「開陽丸海底遺跡」、韓国は「新安海底遺跡」、中国では泉州市の河口堆積土砂から発見された中国ジャンクの「泉州遺跡」がそうであろう。

東南アジア地域での水中考古学の調査活動は1970年代半ば頃に始まった。とくにその調査活動の中心はタイ国である。タイ国では国土の南方に広がるタイ湾で海底遺跡の発掘調査例が近年になって著しく増加している。タイ国においても当初は水中考古学に対する理解は低く海底遺跡から引き揚げられる文化財の密売が横行していたが、1974年になるとデンマークの考古学者の協力を得て、タイ美術局(Fine Arts Department of Thailand)に水中考古学課(Underwater Archaeology Section)を新設し、これを期にして、水中考古学課の最初の調査がタイ湾の奥まった海域のコクラム(Ko Khram)海底遺跡で行われた。出土遺物としてタイ国産の陶磁器類が多量に引き揚げられ、その成果をあげた。

さらにタイ国は1979年にフリーマントルにある西オーストラリア海事博物館(Western Australia Maritime Museum)に併設されたオーストラリア水中考古学研究所(Australian Institute of Maritime Archaeology)と共同調査の合意に達し、これまで約10遺跡程の海底遺跡が両国の考古学者によって発掘調査が行われた。これまで調査されたタイ湾の海底遺跡の多くは16世紀代におさまる年代を示している。

F-1.東南アジア地域

(1)タイ

タイ湾及び沿岸地域の水中調査遺跡

コーシーチャン(Ko Si Chang)1号海底遺跡(図1)

この遺跡は1982年に初めてコーシーチャン島の西方沖3kmの海底で遺構確認の調査があり、翌年の1983年、さらに85年にタイ・オーストラリア合同による発掘調査が行われた。沈没船は水深31mのシルト層で検出された。船体の残存状態は比較的良好で、船の隔壁の存在も確認された。しかし船の構造はこれまで調査された中国船とは異なっていることがわかった。この沈没船遺構にともなうタイや中国陶磁器の中には明の神宗の期年銘「大明萬暦年製」(1573~1619)のある染付皿もある。さらに漆器、中国の鍵、タイの将棋の駒等が検出されている。

コーシーチャン(Ko Si Chang)2号海底遺跡(図2)

この遺跡は1982年に初めてコーシーチャン島西方沖、コーシーチャン1号海底遺跡からわずかに離れた西南方向の海底で遺構確認の調査がタイ・オーストラリア合同で行われた。さらに1987年にオーストラリアの協力による発掘調査が行われた。この遺跡では沈船の残存状態が良好であることは先の確認調査で判明していた。出土遺物の中にはタイや中国南部からの陶磁器類がある。

コーシーチャン(Ko Si Chang)3号海底遺跡(図3)

この遺跡はコーシーチャン島の北端から北北西に約10km沖の20mの海底にあり、1985年に初めてタイ陶磁器(大型の四耳壷)、船の部材が確認された。それらは20×10mの範囲に分布するが、遺構自体は海底に露出せず、わずかにシルト下に埋もれた状態にあった。タイ美術局水中考古学課は盗掘やトロール漁船による破壊の恐れがあると判断し、翌86年に本格的な調査を行った。この調査はタイで初めての国際的な調査隊による発掘で、調査隊の中にはタイを含むインドネシア、サバ、マレーシア、フィリピンなど東南アジア諸国からの参加もあり、十分な調査体制がとれた。2カ月にわたる調査で良好な残存状態にある船が検出された。発掘調査はその調査過程を4段階に分け、(1)調査区域をコンパスによる主軸方位を磁北にとり南北の座標軸にもとづいて、30×20mの範囲に2×2mのグリッドの設定、(2)遺構の上に堆積しているシルトを取り除さ、全体の遺構検出、(3)遺構・遺物の実測、(4)遺構周辺の調査を行った。海底における実測では誤差を士10cm以内にし、その精度を上げた。カメラ実測では±0.5cmの誤差の範囲にとどめる努力がなされた。船の部材・乾葡萄をC14年代測定法サンプルとした結果、1440±60、1540±120という年代がそれぞれ与えられている。

パタヤ(Pttaya)海底遺跡(図4)

この遺跡はタイ・オーストラリアの共同調査が1982年に行われ、1987年に調査が再開されている。沈没船の存在は確認されているが、本格的な発掘調査にはいたっていない。遺跡の年代決定のために引き揚げられた船の部材のサンプルに対してC14年代測定法の結果1370±50が与えられている。

コーリン(Ko Rin)海底遺跡年代測定法(図5)

この遺跡発掘調査は1987~88年にかけて行われた。これまで遺跡の位置を確認することが困難であったが、1988年になって中国陶磁器(明の染付)の破片がシサッチャナライの陶磁器と共に多量に見つかった。船の部材等はいまだ確認されていない。

ランクエン(Rang Kwien)海底遺跡(図6)

この遺跡は1978~81年にかけてタイ美術局水中考古学課により発掘調査が行われた。この遺跡はこれまで盗掘を受けていたが、船の竜骨を含むかなりの部材が残存していることが確認された。竜骨には、その中央部に水の流れる溝が削りだされている。出土した遺物にはスタンプの文様を持ったタイ陶器、銅銭200kg、銅インゴット、陶磁器、象牙、ドラ鐘等がある。1987年にはC14年代測定法による遺跡の年代決定に使用するためのサンプリング調査が行われ、船の部材が引き揚げられた。その結果1270士60が与えられている。しかし象牙の年代は1800±150となっていて、遺構としての沈船とそれにともなう遺物としての象牙には年代的にかなりの隔たりがある。

コークラム(Ko Khram)海底遺跡(図7)

この遺跡は1970年代半ば頃に存在が知られていた。その後、タイ・デンマーク共同調査で多量のタイ陶磁器が引き揚げられた。87年にはC14による遺跡の年代決定のためのサンプリング調査が行われた。遺構の残存状態もその時調査され、非常に良好であることが判明した。この遺跡からの遺物としてはスコタイやスワンカロク地方の窯、さらにシサッチャナライの窯からの陶磁器類、他にヴェトナムからの陶磁器も出土している。

C14による遺跡の年代は船の部材やその他2例のサンプル(資料名不明)が使われ、その結果1380±50、1520±140、1680±270がそれぞれ与えられている。

コーサメサン(Ko Samao San)海底遺跡(図8)

この遺跡はコーサメサン島の東側の沖の海底で確認された。この遺跡に関しての詳細な調査報告はない。

サメドナン(Samed Ngan)河川遺跡(図9)

この遺跡はタイ美術局水中考古学課によって1982年、88年に発掘調査が行われた。サメドナン川の岸辺に近い場所、約1mの堆積土のなかで船体の一部(21×7m)を検出した。出土遺物は少なく、遺跡の年代を決定する決め手には成り得ず、船の部材サンプルを使用したC14年代測定法の結果は1800±150が与えられている。この船は今のところ中国のジャンクと考えられている。

コークラダット(Ko Kradat)海底遺跡(図10)

この遺跡は1979~80年にかけて調査され、遺跡からは船体の一部が検出された。この遺構からはタイのスワンカロク地方の窯からの陶磁器類と中国の明染付皿等が供伴遺物として出土した。その中には底部に世宗の「大明嘉靖年製」(1522~66)銘のある染付も見つかっている。銘のある染付は沈没船の年代を16世紀半ば頃に比定でさる手がかりとなっている。

プラチャップクリカーン(Prachuap Khiri Khan)海底遺跡(図11)

この遺跡を含む近くの海底には幾つかの沈没船の遺構の存在の可能性があると言われているが、1987年の調査ではいまだその確認はされていない。ただし1カ所だけ陶磁器が出土する低い丘のある海底が確認された。陶磁器にはメナムノイの窯出土の物に類似していることが指摘されている。

(2)インドネシア

ブキットジャカス(Bukit Jakas)海底遺跡

この遺跡はリオー諸島にあり、1981年この遺跡の発掘調査がインドネシア考古学研究所により行われた。遺跡から沈没船の船体の一部が検出された。年代決定のために部材の一部をサンプルとして採取し、その資料をC14年代測定法にかけた。結果は1445士80の年代が与えられている。

ゲルダーマルセン(Geldermalsen)号海底遺跡

この遺跡はスマトラ島東海岸沖で1752年に沈没したオランダ東インド会社(VOC)船の遺構である。

バレンバン(Palembang)遺跡

この遺跡の詳細な資料は入手できないため、現状では不明。

トウーバアン(Tubuan)海底遺跡

この遺跡はジャワ島スラバヤ市から北へ海岸沿いに約90kmにある小さな海岸都市である。ここでは海岸から沖1kmの砂質の海底から陶磁器が発見され、引き揚げられていることが広く人々の間で知られていた。遺跡は盗掘をしばしば受け、遺跡破壊が以前からかなりの程度まで進んでいた。1983年にこの遺跡の発掘調査が行われたが、この調査では沈没船らしき遺構は確認することができなかった。この調査で引き揚げられた遺物は中国陶磁器、タイ、ベトナム陶磁器がある。

ジャンブアイル(Jambuair)海底遺跡

この遺跡はスマトラ島の北端に近いジャンプアイル岬沖のマラッカ海峡で1990年にポルトガルの東インド会社(Estada da India)所有の船でフロ・デ・ラ・メール号(Frolu dela maru)と思われる沈船がサルベージ業者によって発見され、青銅製の大砲、錨、陶磁器、ボルトガル銀貨等が引き揚げられている。ポルトガルは1600年頃までに西南アジア地域にいくつかの貿易の拠点(マラッカ、マカサール、アボポイナ、マカオ)を設立している。しかし18世紀になるとこの地域はオランダの進出が盛んになり、ポルトガルがマカオを除いてこの地域から締め出される歴史的な経緯がある。

(3)フィリピン

フィリピンにおける水中調査活動は1970年代に始まった。それ以来この地域での遺跡調査は主にヨーロッパ大航海時代(16~19世紀)にともなう西欧諸国の沈没船が対象となった。特にオランダ、ポルトガル、イギリスによるいわゆる「東インド会社」の設立がこの地域への交易拠点の確保及び経済利権の拡大をもたらせた。一方スペインは、1521年のマゼランによるフィリピン諸島への到達以来、本国からメキシコを経由する太平洋西回り航路によって、西南アジア「香料諸島」への航路開拓、さらにヨーロッパ帰還航路の確立が課題となり、先の国々によって独占されたこの地域への経済活動へくさびを打ち込む必要があった。そのためには西南アジア地域の最も東に位置するこのフィリピンに橋頭堡を築く必要があり、この国への西回りによる接近がなされた。

このような状況のなかで水中調査の関心がヨーロッパとフィリピンとの関係を結びつける物的証拠として、沈没船が重要視されたのは当然であろう。この地域においても外国の水中考古学機関からの合同調査の提供が盛んである現状はこの様な理由からであると思われる。この国を取り巻いている歴史的環境が、そのまま水中考古学の発掘調査の傾向に何らかの影響を与えていると考えられる。フィリピン国立博物館が水中考古学調査に関心を持ち始めていることはこの分野の学問の研究傾向の偏りを是正することになるであろう。フィリピン国立博物館はこれまでフィリピン全国の16地点で海底遺跡を確認し発掘調査を行っている。

フィリピンの水中遺跡調査

ボリナオ(Bolinao)海底遺跡Ⅰ・Ⅱ(図1)

この遺跡はルソン島のほぼ中央西部海岸(マニラから北西約240km)のボリナオ付近の海底の2カ所で遺物の確認があった。

1.ダガポロ(Tagaporo)島沖の水深3mの海底で1988年の調査で確認された。この遺跡は異なった2カ所の海底から遺物が出土していることが確認されているが、異なる地点から出土する遺物器種、型式に隔たりはなく、遺跡が2グループに分かれるのではなく、珊瑚礁の浅瀬に乗り上げた船から積載品が落下し、二次的に波によって遺物が拡散し、広範囲に遺物が散布するものである。

2.シラキ(Silaqui)島の北の海底で船の碇石が出土している。この碇石は長さ約210cm、幅30cm、厚さ20cmを測る。中国の泉州で出土している碇石と比較することができる。

サンアントニオ(St.Antonio)海底遺跡(図2)

この遺跡はルソン島西部(マニラから北西約110km)のザンバレス山脈西側のサンアントニオ沖の海底50mで確認され、宋時代の陶磁器が引き揚げられたと言われているが、この遺跡の詳細は不明。

プエルトガレラ(Puorto Gaiora)海底遺跡(図3)

この遺跡は1983年ミンドロス島プエルトガレラ港付近の海底で、沈没した船体の一部が存在していることが発掘調査で確認されていたが、調査中に盗掘に遭い、ほとんど遺構は残存しない。しかし船体の構造はいわゆる「バランゲイ・タイプ」と呼ばれるものであったと言われている。船の遺構にともなう遺物としては陶磁器片が1点のみ出土している。

さらに港から2門の鉄製の大砲が引き揚げられている。その一つにはAVOCのマークがあり、中央にFの印が付けられたスウェーデン製、もう一つはGの印があるイギリス製の大砲である。これらの大砲の製造年代は17世紀末~18世紀初頭になるものである。

バルデ(Vordo)海底遺跡(図4)

この遺跡は1983年ミンドロス島の北のバルデ(Verde)島の南端の沖合、水深約8mの海底で、沈没した船体の一部が存在していることが確認され、発掘調査が行われた。船の遺構にともなう遺物としては中国やタイ陶磁器が出土している。船体の竜骨、肋骨、板材の部材が出土している。1987年に竜骨と船体の僅かな部分が引き揚げられている。この遺構は18世紀のマニラガレオン船、ヌエトラ・セニョーラ・デラ・ビダ(Nuestra Senorade la Vida)号と言われているが、その船に比定するための決定的な物的確証はない。

マリンドゥケ(Marinduque)海底遺跡(図5)

この遺跡はルソン島南部のタヤバス(Tayabas)湾に面しているボクク(Boac)島のマリンドゥケ沖の海底で発見されている。

北パラワン(North Palawan)海底遺跡(図6)

この遺跡は北パラワン州のクイニルバン諸島の海域で1987年にその存在が確認された。船体の存在は確認されていないが、しかしその遺構の存在をうかがわせる遺物として碇石が2点程出土している。その外の出土遺物には陶磁器類がある。

ロイヤルキャプテンショーアル(Royal Captain Shoal)海底遺跡(図7)

この遺跡はバラワン島の西側、南シナ海で1985年にフランスの調査隊によってその存在が確認された。船の存在は確認されていないが、遺物として中国の染付が出土している。

ブトゥアン(Butuan)川底遺跡(図8)

この遺跡はミンダナオ島北部にあるブトゥアン市アグサン(Agusan)川の河口デルタ地帯、海岸より6km上流地点の堆積土の下から発見された。今日の川の流れからは約1km離れている。船は全て平底を持つバランガイ(Balanghai)船で最初に出土した残存部の長さ1.6mの船は20年以上前の発見である。2隻目の船の遺構は約1km南西へ行った地点で1977年に確認された。残存部は14mを測る。3隻目は2隻日の地点から数m南東の地点で出土し、引き続き発掘調査が行われた。引き揚げられた2隻日の船体は保存処理を施し、フィリピン国立博物館に展示されている。船の遺構にともなう出土遺物が調査期間中に盗掘されるなど船の年代決定については困難な状況がある。C14によると(学習院大学による測定)第1隻目は320士110と1630±110、第2隻目は700士90という年代が得られている。最初の資料はブトゥアンにある。しかし船体の実測及び復元は行われていない。

グリフィン(Griffin)号沈船海底遺跡(図9)

この遺跡は1761年中国からの帰路の途中スール海で沈没したイギリス東インド会社(EEIC)所有の商船グリフィン号である。フィリピン国立博物館とフランスの水中考古学者によって1985~87年にかけて調査が行われた。沈没船は深さ12mの海底下約6mにわたって堆積した砂層から検出されている。

グリフィン号は英国ブラックウォール市のジョン・ペリー造船所で1748年に造られた。全長約40m、重量500tの船である。沈没に遭うまでに、中国に4度航海している。航海日誌によれば、最後の航海は1960年広東省のマカオ付近に停泊していたが、フランス東インド会社の軍艦がマラッカ海峡を通過している情報を得て、翌年1月1日に中国を離れた。その時の船荷は茶、絹地、陶磁器が主である。フランスとの衝突を避けるために迂回してポルネオ島とセレベス島の間のマカツサル海峡を通過することにして、フィリピン、ミンダナオ島の西に広がるスール海に船を向けた。出航して3週間後船は浅瀬“グリフィンの瀬”(Griffin Rocks)に座礁した。調査の結果、船体の2/3にあたる約29mの船首~中央部にかけ上部構造は失っていたが、船体の遺存状態は良好で、船の外板、肋骨さらにデッキの一部を検出した。引き揚げられた遺物には清朝時代の中国陶磁器等がある。

タール(Taal)湖底遺跡群(図10)

この遺跡はマニラから南へ約60kmにあるカルデラ湖のタール湖底で発見されたスペイン統治時代の集落跡である。タール湖の沿岸には多くの集落があり、今日それらの幾つかの集落は水没している。これらの遺跡の調査は1982~83年に行われている。

1.旧リパ(Old Lipa)湖の東方にあり、水深20mの地点で壷が発見された。これは15~16世紀の年代に比定できる。さらに北に0.5km、沿岸から沖へ100mの水深8~9mの湖底で建築遺構を確認する。1~2mの高さのある壁と思われ、20~25cm程の石を組み上げている。壁の上面は平坦で、長さ3mである。

2.旧タナウアン(Old Tanauan)湖の北東にあり、沿岸から100m沖に“岩”と呼ばれる地点で、乾期には水面より約1mほど岩の上部が現れる。その表面12カ所にピットが穿たれている。さらに方形をした穴が2カ所にある。この”岩”から南に6m離れた地点の水深3mの湖底には高さ1~2m、長さ20mの石組の壁が“岩”をとり囲む様に並び、さらに南東に70m離れた地点の水深8~9mの湖底には高さ2~3m、幅2~3mの石組の壁が検出された。この地域からはさらに石組遺構が検出されている。沿岸より50m沖の水深9mの湖底に高さ5mの半円形状に並ぶ。ほぼ中央には2.5mの幅の入口と思われるものがある。

(4)マレーシア

リスダム(Risdam)号海底遺跡

この遺跡はマレーシア半島東海岸沖で1727年に沈没したオランダ東インド会社(VOC)の沈没船リスダム(Risdam)号である。1984年にこの遺跡からの盗掘品が公になったおり、遺構の存在が想定された。1985年に遺構の確認がマレシング(Mersing)の沖にあるプラウ・バトゥー・ガジャハー(Pulau Batu Gajah)島の北約500mの海底でされた。遺構は海底下約1~4mの間で船体が確認された。船体は右舷を下に15゚傾いている。遺構は長さ約37mが残存している。供伴遺物にはタイ四耳壷、スズのインゴット、鉛のインゴット、象牙、オランダ煉瓦、サッパン木、滑車等がある。

ポンティアン(Pontian)海底遺跡

この遺跡の詳細な資料は入手できず不明。

ジョホールラマ(Jahore Lama)海底遺跡

この遺跡はマレー半島の南東海岸の沖合で発見された。この海底遺跡の詳細な性格等は資料が入手できず不明。

F-2.中国地域

この地域での水中調査の活動は1970年代に始まったといえる。それは福建省泉州で発見された南宋時代の一隻の中国のジャンクである。この遺構は海底にあったのではなく、河口に堆積した土砂のなかから出土した。この発掘調査以来中国では水中考古学への関心が起こり始めた。中国では水中から引き揚げられた船体あるいは遺物といった考古学的な資料は増加している。しかしこれに携わる専門の知識を持った考古学者が不足している。このような現状を解決していくために中国歴史博物館から二人の考古学の職員がアメリカのINA研究所で数カ月の研修を受け、さらに1989年にはオーストラリアの研究機関との間で、水中考古学調査を行える体制づくりをするための協力関係ができ、水中考古学に関する講義、実技は全てオーストラリア側が提供することで考古学者(9人)、写真家(1人)、化学者(1人)を対象に、約1年間にわたる研修が青島及び福建省で1990年まで実施された。研修には①潜水技術習得、これは安全で効果的な潜水、さらに発掘調査で使用する器材、器具に精通すること。SCUBAトレーニングではまずCMAS初級☆ダイバー(One Star Diver)のカリキュラムを習得し、さらに上級のレベルのカリキュラムを修了する。②水中遺跡の発見及び発掘調査の方法、(a)発見地点にブイマーカーを上げる、(b)遺跡全体のスケッチ、(c)ベースラインの設定、(d)番号札を付けて調査地点を決定、(e)遺跡の全景写真撮影(フォトモザイク法)、(f)テープによる遺物の三角測量、(g)正確な遺構図面の作製、に重点が置かれた研修である。このような国際協力がアジアの地域で行われていること、さらに中国のこの新しい学問に対する姿勢は正しく評価されるべきである。

F-3.韓国地域

韓国では、1980年代に水中考古学調査が行われ、その発掘の経緯、検出された遺構・遺物の報告が何らかの形で公にされているのは次の4件である。なかでも、いわゆる新安海底の沈没船発掘調査は韓国社会の水中考古学への関心を高め、新しい学問として韓国のみならずアジア地域の水中考古学の発展をもたらせたと評価できる。

新安海底遺跡

全羅南道新安郡知島邑防築里道徳島沖で1975年に漁師の網に偶然、陶磁器がかかったことから、1976年に全面的に海底調査が始まり、水深20~25mの海底には中国の船とみられる船体も発見された。調査は、水中環境(透視度ほぼゼロ、潮の干満の差が大きい)が良くないことから、グリッド法(2×2m)によって出土地点のみを記録することに重点をおいて行われた。沈没の時期は船荷の中に見つかった木札から1323年頃に中国を出港したことが考えられる。

莞島海底遺跡

全羅南道莞島郡薬山面漁頭里沖の海底約15mで、1977年に漁師によって高麗青磁が引き揚げられたことが調査のきっかけとなり、1983~84年に本調査が開始され、多量の青磁器類が発見された。また、船体の一部も引き揚げ、この船は角材(80~200mm×300~350mm)を使用した平らな船底をもつことが判明した。陶磁器類の研究で沈没時期は11世紀中頃~後半頃と考えられる。

満山海底遺跡

瑞山郡新進島里馬島沖で発見された遺跡で、1981~83年にかけて、3回の調査が行われたが遺構としての沈没船の船体は確認されていない。船の積載品と思われる遺物(陶磁器、鉄製品)等が引き揚げられている。

北済州海底遺跡

済州島北済州郡新昌沖で発見された遺跡である。1983年に調査が行われ船体は確認されてはいないが金製品等が引き揚げられた。