九州・沖縄水中考古学協会会報
第1巻・第1号
1991年1月31日発行

水中考古学に思う  西谷 正

周囲を海に囲まれた日本列島、そして、その沿岸の海底に没している数多くの遺跡群のことなどに思いをいたすとき、日本の水中考古学の貧困さを痛感せずにはおれない。専門研究者はもとより、行政機関の技術者もこの現実を直視すべきである。ことに湾岸を自らの区域内に含んでいる行政当局は、海底遺跡の的確な現状把握とその早急の対応策を計るべきである。わが九州においては、文化庁の指導や長崎県および鷹島町の肝入りで、伊万里湾岸の鷹島海域において、元寇関係遺跡に対する調査が、過去10年の間にいくたびか実施され、また、現在もその調査・研究・保存方法に関する基礎的研究が進行中である。ここにいたって関係者一同が念じるのは、調査・研究の恒久性である。そのためには現地に、専門技術者が常駐し、願わくば将来、水中考古学研究所を設立したいものである。

 

何故今、水中考古学が必要なのか  林田 憲三

地球の全面積で陸地が占める割合は30%で、あとの70%が海ということを考えれば、人類の諸活動が太古の昔から海に臨んで、内陸地との相互的な生活交流やあるいは海外との交渉へと発展していったのは当然といえる。人々は過去にも、更に現代でさえ湖沼や河口近くの海に人工島を造りその上に居住をかまえて生活している。今や大規模な埋め立て(有明海、博多湾、響灘や瀬戸内海)、人工島(東京湾、大阪湾や名古屋湾)や海の環境汚染による海への侵略は海にかかわった人間の歴史を永遠に私達の手もとから遠ざけてしまっている。“海から”の視点に立った人間の歴史の再構築は九州・沖縄水中考古学協会の使命といえる。

最近、私達が水中にかかわる機会が増えてきている。それらはレジャースポーツから学術調査まで、その活用範囲は多岐にわたっている。水中考古学も海、湖沼さらに河川を学問活動の領域としている。そして水中に埋没している遺跡や遺物を考古学という学問の専門領域で調査研究する。私達の過去に人類が生きてきたその歴史の証は陸上にだけ在るのではなく、水中にも在ることを忘れてはならない。

水中に眠る文化遺産に対して所詮“トレジャーハンティング”はその歴史的な経緯をみてもわかるように、発見された文化財はわたしたち全てが等しく共有する財産というよりも、寧ろ個人あるいは少数の利権者の所有物となっている。“海のロマン”や“海の冒険”といった美句が彼らの行為を心理的に正当化している。水中考古学は水中の文化財を保護し、人類全ての遺産を調査し、その研究成果を公表することで非社会的な野蛮的行為を終結させることでもある。

日本では年間数千件の文化財発掘調査が行われているが、それらのほとんどは陸上の調査である。水中の文化財調査が今日まで継続的に行われているのは北海道江差、滋賀県琵琶湖、及び長崎県鷹島の三か所ぐらいである。これ迄に調査された水中の文化遺産が少数の人々の献身的な理解と行動によって破壊を免れ、記録され、更に保存・保護されてきた経緯がある。しかし日本の領海を含む全土で開発のために永遠に失われようとしている水中の文化遺産が今や組織だった水中考古学の救いを待っているのである。国は水中の文化財を保護する法律を早急につくることが要求される。

米国では水中の文化財保護に関する法律としては1987年12月にThe Abondoned Shipwreck Act(S.858)が米国議会の上院を通過し、1988年4月にはこの法案が下院で賛成大多数をもって可決している。同年4月28日にはレーガン大統領がS.858を承認し、水中の「文化財保護法」として陸上と同様にその効力を発揮し始め、今日に至っている。この「文化財保護法」は米国各州に属する水中に没した所で発見された歴史的な沈船(historical shipwrecks)に関して州は明白なる権利を有するということで、それは連邦水難救護法(Federal Admiralty Law)の文化財に対する運用を制限するものである。S.858では沈船が国指定の史跡(National Register of Historic Places)として指定を受ければ、陸上の遺跡や遺物が受けることの出来る同様な法的な保護を州から受けることが出来る。しかし、このS.858に村しては各州が適切な運用を未だ行っていないという反論が一方ではあるが、少数の州では既にこの法にそっての動きが始まっている。日本では米国で運用されている水中の「文化財保護法」はないが、最近の水中考古学の活動を考えていくうえで、この問題を無視続けることは出来ないであろう。

最近、“ウォーターフロント”或いは“海に開かれた都市”という言葉をよく耳にします。コマーシャルの響きに似たこれらのフレーズの奥にある哲学が日本の将来の在りかたの思想として推薦できる商品なのかどうか、週末にでも近くの海辺を歩きながら一考するのも良いのではないでしょうか。

 

元寇を掘る  高野 晋司

九州西北部、伊万里湾の入り口に位置する鷹島の名前が一躍有名になったのは、1980年(昭和55年)以来数次にわたる同海域内の水中調査の結果である。

鷹島は面積17.16k㎡、人口3,500人程の半農半漁を生業とする小さな島で、行政的には、長崎県に属している。

この島の南岸の海底からは、以前から地元の漁師によって壷などの各種遺物が多く引き揚げられており、史実に言う元寇の舞台ではないかと思われていた。

言うまでもなく、モンゴル軍は二度我が国に来襲した。一回日の来襲、世に言う文永の役(1274年)の時には、900隻の軍船と兵士43,000人が攻めて来たわけであるが、博多へ上陸した後、夜、沖に停泊している時に風雨に襲われた模様で、かなりの被害を受けた後本国に引き上げている。但し、台風がやって来たという記録は無い。二回目は7年後の1281年、今度は軍勢を2班に分け、総勢軍船4,400隻、兵士14万というとてつもない大兵団で襲って来ている。只、この時も作戦上のミスがあり、2班の軍勢が合流するのは予定より半月位遅れた旧暦7月初旬になっている。場所も当初壱岐で落ち合う予定が平戸付近に変更しており、そして、この大兵団は一カ月近くもこの周辺に留まっている。この時期は、太陽暦でいう8月の終わり頃で210日に近く、いつ台風がきてもおかしくない時期にあたる。

そして、今度は正真正銘の台風がこの大軍団を襲うことになる。狭い伊万里湾に4,000隻を越す軍船がひしめきあっていたわけであるから、波風のせいばかりでなく、船同士の衝突によって損傷し沈没した可能性が高いと思われている。ともかくこの暴風によって軍団の7割近くが壊滅するといった世界に残る大海難事故が起こった訳である。

そしてその事故から700年経った今、我々はその史実を水中考古学という科学的方法で確かめようとしている。1980年以来10年にわたって調査してきた成果によれば、鷹島南岸の延長7.5kmについては、水深3~30mの海底から確かに多くの遺物が出土している。その種類を記せば下記のようになる。

  • 日用雑器:壷、大型壷、碗、石臼
  • 船道具類:碇石、磚
  • 武器類:石製砲弾、鉄製刀
  • その他:管軍総把印(至元14年造)
黒褐釉壺:鷹島町床浪海底遺跡から

黒褐釉壺:鷹島町床浪海底遺跡から

これらの資料については、まだ科学分析が終了していないため結論をだすのは早計であろうが、出土資料の種類と数量の多さを考える時、この地が二回目の元寇、すなわち弘安の役で蒙古軍が台風によってほぼ壊滅したという史実の舞台であったことは疑いのない事実として捉えられるだろう。

このような観点から、この鷹島南岸の汀線より沖合200m、延長7.5kmについて海底遺跡として周知することになった。従って、当該地内におけるあらゆる開発行為は文化財保護法によって規制されることとなり、開発の前には発掘調査が必要となった訳である。

青磁蓮花紋碗:鷹島町床浪海底遺跡から

青磁蓮花紋碗:鷹島町床浪海底遺跡から

水中調査は陸上の調査と異なり、色々な面で制約がある。調査の場所が水中であるから当然息をするにも器材が必要であり、陸上では考えられないような余分な経費もかかることになる。しかし、調査方法は基本的に陸上の場合と変わりはない。調査員も訓練を積めば誰でも参加出来るようになる。

最近のウォーターフロント計画の多発を考えると、今後は、陸上ばかりではなく水中の遺跡も調査する機会と必要性が増すことは容易に想像がつく。水中考古学が決して特殊な分野では無いようになるだろう。鷹島の一連の水中調査は、今後各地の同様な調査に多くの有益なデータを提供することになるものと思う。

 

九州・沖縄水中考古学協会の発足に寄せて  石原 渉

私は、北は北海道から南は九州、沖縄の海まで、調査や研究活動で幾度となく潜った経験がある。そして、その海その海によって、まったく環境や景色が異なることを知った。北の海は海藻が生い茂る豊かな海だし、南の海はコバルトブルーで、驚くほど澄みきり、色とりどりの小魚が群れ遊ぶ海であった。

海は、地球上の生きとし生けるもの、すべての母といわれ、我々の過去も当然、この中で眠り続けているはずである。

現在の我々には様々な謎が存在するが、もしかしたら、そんな我々の疑問を簡単に解いてくれる鍵が、この海の中に隠されているかも知れない。だから素朴な疑問や、興味を持って、海とのかかわりを続けていけば、その鍵にたどり着くことも決して不可能ではなかろう。

だがその前に、まず海の中に入って、周りを見回してみよう。一度でも海の中に入った経験のある人なら、なんと海が汚されているかを知っているはずである。空き缶、ビニール、プラスチック製品から、果ては古タイヤまで、なんでもござれ。まるでゴミ捨て場である。なんと人々は、無造作に海を汚してきたことだろうか。海に物を捨てれば、すぐに海中に没してしまい、跡形もなくなる。但し、それは当然の事ながら、海底にちゃんと残され、ますます海を汚染し続けていくのである。

この会は水中に眠る文化財の保護と、調査研究のためにつくられたものである。だがそういった活動と同じくらい大切なことは、その海を開発や汚染から守ることにあると思う。それなくして、我々の活動の場はなくなり、調査も研究もなりたたないからだ。

これから、この会にはいろいろな人々が参加されることだろう。歴史の専門家もいれば、愛好家や、ただ海が好きだからという理由の人もいよう。それはそれでいいのである。その人達、一人ひとりが海を大切にする心を育て、尚且つその下に眠る文化財を、保護する役割を担うことが出来れば、もうそれだけで、この会は社会に対する責任を、充分に果たすことが出来ると信ずる。この会は少なくとも、一人よがりの集まりであってはならない。地域社会に何を成すことができるか、地域と一体となり、どんな行動がとれるかを、この会では常に問い続けていかなければならない。

環境問題と歴史研究は一見、結びつかないように思えるが、実は大きな関連性がある。我々は歴史という、果てしのない時間の流れの中にいる。様々な出来事が駆け巡り、我々の前を通り過ぎて行くが、その時間の経過は、常に進歩と発展の積み重ねである。しかし、その進歩や発展が、周りの環境を破壊していることに、人々は時として無頓着であり、なかなか気付かない。時間の経過というレンズの焦点を、どこかに合わせてみよう。そうすれば、その地域の環境が、いかに刻々と破壊されていくかが、よく分かるはずである。科学技術が進歩し、これだけ豊かになった我々だからこそ、自然環境という、掛け替えのない大切なものを、後世に残してやらねばならない。

水中考古学研修、沖縄県渡嘉敷 1989

水中考古学研修、沖縄県渡嘉敷 1989

人類は今までに、幾度となく絶滅の危機に瀕してきた。しかし、それを持ち前の知性を駆使して、乗り越えてきたのである。今からでも決して遅くはない、我々、一人ひとりがやれることからやってみよう。それはたった1個の空き缶の投げ捨てを止めることから始まる。たった1枚のビニールの菓子袋を、くず寵に捨てることから始まるのである。

私は初秋の風が立ち始めたある日、福岡市の東にある志賀島の海岸線を散歩していた。ここはご存じの通り、『漢倭奴国王』という、日本史の教科書には必ず一度は登場する、金印出土の地として知られる。朝日でまばゆいばかりの陽光は、遥か水平線をキラキラ輝かせ、寄せる波頭も穏やかである。しかしその波打ち際は、やはり様々なゴミが打ち寄せられており、賑わいを見せた夏の名残をとどめていた。そんなゴミたちにまじって、私の目に一の小さな土器片が写った。古墳時代に使われた、土師器という赤褐色の土器片である。私はそれを拾いあげてみた。おそらくは皿の底の部分であろうか、打ち寄せる度に磨滅したものか、割れ口はすでに丸みをおびている。ゴミの中で拾った小さな土器片は、私にとってなんともいとおしく、貴重な宝物となった。その小さなカケラは、私に歴史の重みと言うものを教えてくれたようである。いつ、どうしてそれが海に紛れ込んだのかは分からないが、そんな貴重な文化財が、今も眼前に広がる海の底に眠り続けているかと思うと、私はわくわくする感動を覚えたものである。 これから一人でも多くの人が、この協会に集い、こうした体験を別ち合うことが出来れば、幸いである。そしてその活動を通して海の環境浄化をも訴えることが出来れば、これに優ることはない。