九州・沖縄水中考古学協会会報
第3巻・第3/4号 通巻10号
1996年1月31日発行
透明度問題への取りくみを! 田辺 昭三
東地中海シリア沖や、日本では沖縄諸島周辺のように、透明度抜群の水域で考古学調査ができれば「潜りも亦愉しい」と思う。だが、われわれの主な調査対象は、瀬戸内海や琵琶湖など水域の環境に恵まれる場合はすくない。
日本に水中考古学を根づかせたいと願ってざっと二十年、日本国内をとび出し、地中海、中国南海・渤海湾などの海域にまで出かけていったが、これから腰を据えて東アジアを中心に水中考古学を育てていこうとするなら、結局水中における透明度の問題を解決することが急務だと思う。科学技術の発展や機器の発明・改良を水中考古学へ積極的に導入して調査技術の前進をはからなければならないが、なかでも透明度の問題は直ちに着手、解決すべき課題であろう。
日本の水中考古学(Ⅰ) 石原 渉
この原稿は平成12年3月文化庁がだした『遺跡保存方法の検討-水中遺跡-』の第2章水中遺跡調査の歴史 2. 日本における水中遺跡調査の歩み-の基稿となったものです。こちらを参照ください。
鷹島町神崎地区潜水調査:1994年度調査 林田 憲三
1.はじめに
協会が行なった神崎地区の潜水調査地点は1981年7月に「鷹島海底遺跡」として「周知の遺跡」に定められた海域内である。(Fig.1)この海底遺跡は鷹島の南岸の東側に位置する干上鼻から島の西側の雷岬までの距離約7.5kmと汀線から沖合200mまでに囲まれる約150万㎡の海域をさす。
鷹島海底遺跡ではこれまで2度にわたって文部省科学研究費補助金による水中考古学の学術調査が行なわれている。最初の調査は1980~82(昭和55~57年)にかけて行われた。この調査の目的は「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」(註1)であった。2度目の調査は1989~91(平成元~2年)に行なわれた。調査の目的は「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」(註2)であった。更にこれら学術調査以外に長崎県教育庁文化課及び鷹島町教育委員会による緊急調査がこれ迄に9回行なわれていて、そのうち発掘を伴う調査が6回既に行なわれている。初回(註3)は1983(昭和58年)7~9月、2回目(註4)は1988(昭和63)9月、3回目(註5)は1989(平成元年)6~8月、4回目(註6)は1992年(平成4年)7~9月にかけて、床浪港改修工事に伴う海底調査が行なわれ、この調査では縄文早期の包含層を海底下-25~-26m(標高)で確認している。5回目と6回目は1994(平成6年)10~12月、1995(平成7年)7~9月に神崎地区の神崎港改修工事に伴う海底調査が行なわれている。5回目の調査では大型や小型の木製碇が海底に厚く堆積したシルト層(海底面より平均1~2mの深さ)のなかで検出されている。
「鷹島海底遺跡」で、これまで行なわれた学術調査及び緊急調査では、元寇に関係する船や船体の一部と認められる木製遺物は未だ検出されていないが、しかしこれ以外に海底より出土した元寇関係遺物は数多くある。中国陶磁器をはじめ、鉄刀、船釘、石弾、石臼、片口乳鉢、磚、碇石やその他にも鉄製品、木製品、竹製品等がそうである。その数は少ないが銅鏡等もある。また朝鮮半島系遺物として高麗製の銅碗や陶磁器も含まれている。これらの遺物以外に、縄文土器、近世陶器、人骨及び獣魚骨等がある。現在までに「鷹島海底遺跡」で出土した遺物の総数は約2200点近くに達するものと思われる。
九州・沖縄水中考古学協会は「鷹島海底遺跡」の緊急調査に1989(平成元年)に初めて参加し、1992(平成4年)には床浪港の発掘調査に協力をした。更に1994年、1995年には神崎港の発掘調査にも参加した。
その間、協会は「鷹島海底遺跡」で元寇関係遺物の散布状況を調査するために1992年、93年、94年、95年に鷹島町からの委託調査を行っている。本稿は1994年に実施した神崎地区における第3回潜水調査)の報告である。今回、元寇関係遺物確認調査は7月22日(金)~7月24日(日)に実施した。
水中考古学において日本の現状は決して好ましい状態とは言い難い。国による水底の文化財に対する理解は殆どないといってよい状況にある。何故ならば日本を取り巻くアジア諸国、例えばタイ(タイ美術局水中考古学課)、インドネシア、フィリピン(国立博物館考古学局水中考古学課)、中国(中国歴史博物館水下考古学研究室)、韓国(木浦海事博物館、National Maritime Museum)では、この水中考古学を専門の学問として、ある程度の理解の差こそあれ、国立の研究機関や博物館に所属する水中考古学部門が設立され、国家的なレベルで永続的に現在も水中探査や発掘調査、引き上げ遺物の保存、修復、整理、更に調査結果の報告書の作成が行なわれている。このような研究機関では水中発掘調査を担当する研究者がわずかずつではあるが、欧州やオーストラリアの協力を得て、潜水技術、理論、調査方法等を習得し、独自の水中調査が増加していることは大いに評価できるといえる。
日本における海の開発で、その特徴的な行為は海の陸地化である。人工島や干拓といった海の埋め立てが海底の埋蔵文化財の存在を確認することなしに、全国的に今なお急速に進められている。この種の海洋開発が海底の埋蔵文化財にとって最も致命的な大きな破壊となる。陸上の埋蔵文化財が文化財保護法の適応を受けて開発から保護されているが、海底の埋蔵文化財は現在海の陸地化、港湾施設等の拡充に伴う「ウオーターフロント」計画といった人間の生活環境の充実、海を取込んだ自然と快適空間の共存は海に臨む都市では重要な課題の一つになっている。しかしこの自然と人間との理想的な共存をうたいあげる思想には海岸部に残された人間の歴史への証言としての海底遺跡の存在は「開発側」の意識の中には全くといっていいほど存在していない。水中の文化財保護法が確立していない現在、陸上の埋蔵文化財保護法を水中へ柔軟に適用していくことが求められるのでなかろうか。
陸上と海が接する汀線付近ではこれ迄、多くの海底遺跡が発見されている。西九州の海岸部では西唐津海底遺跡や縄文早期の遺物が出土した鷹島海底遺跡の床浪港沖の遺跡などが見つかっている。特に長い海岸線をもつ長崎県の海岸部では縄文時代遺跡が数多く発見されている。このような海底遺跡などは海岸部の開発に伴う工事で偶然に発見されることが多い。その反面、探査機など現在利用できる機器を使って海底遺跡を発見することは現時点では非常に難しい。埋蔵文化財保護法の適応を受けている鷹島海底遺跡では、海岸部の開発が避けられない場合には、緊急調査として、遺跡の記録保存のための発掘調査が行なわれている。この鷹島海底遺跡で行なっている緊急調査の手続きや発掘調査の方法を全国的に水中遺跡が確認されている遺跡に採用して行くことが現在最も望まれることであり、この方法が日本における水中遺跡の解明には有効手段であると思われる。
このことから九州・沖縄水中考古学協会は全国的に水中遺跡の分布調査を行なっていくことを協会活動の一つと考えている。
2.調査の目的
これ迄、鷹島の歴史で最大の事件は、この島が元寇(弘安の役、1281)の舞台となったことであろう。鷹島は日本の中世史に重大な影響をおよぼした史蹟の島である。歴史上の事件として多くの文献資料に散見される元寇を考古学の学問領域にある水中考古学で解明するために、鷹島海底遺跡は重要な研究の場を我々に提供している。鷹島で起きた歴史事件を鷹島の海底で証明する意義と人々の目に触れる機会の少ない水中に埋もれた人間の歴史を明らかにすることに水中考古学はおおいに貢献することができる。鷹島の海底は縄文早期(約6,000 B.C.)から13世紀迄の人間の歴史を知ることができる海底遺跡である。
今回の潜水調査による遺物の散布状況の把握は海底で元寇関係遺物の確認を主な目的としてはいるが、決して中世時代だけに限定しての分布調査ではない。近世の遺物、例えば肥前陶磁器は鷹島の海底でも数多く確認される。鷹島の浮かぶ伊方里湾の奥には伊万里港があり、肥前陶磁器を積み出した湾として、その「伊万里」の名を全国的に広めた陶磁器に留めている。
協会の調査の目的は「鷹島海底遺跡」の神崎地区で遺構(船を含む)及び遺物を目視によって確認する潜水調査である。この神崎地区は現在でも大量の中国陶磁器が潮間帯の海岸で採集することができる。この理由から九州・沖縄水中考古学協会は、第1回調査(註8)を(1992)平成4年6月27日、28日の2日間にわたっておこなっており、引き続き第2回調査(註9)を(1993)平成5年7月23日~25日に潜水調査を神崎地区で実施している。
これまで潜水調査を行なった調査区域から更に東側の地点の海域に今回の調査区域を設定した。この調査区域は「鷹島海底遺跡」でも最も出土遺物の多い地点のひとつであるため潜水調査を実施することは、将来の精密な発掘調査を行なう場合の重要な資料を提供するとおもわれる。
3.調査期間及び調査の組織
今回の潜水調査は平成6年7月22日(金)から平成6年7月24日(日)迄に行なった。調査を担当したのは九州・沖縄水中考古学協会員と職業潜水士(2名)からなる、全11名で構成された。調査参加者以下の通りである。
高野晋司、小野田康久、向原要一、小川泰樹、小川光彦、土肥貴弘、石原 渉、林田憲三、牧野光隆、宮越幸司、荒木伸介(協会顧問)
4.調査日誌
7月22日(金)晴れ
11:00 小野田、宮越両潜水士は既に長崎より到着して、今回の潜水調査で使用する水中ビデオカメラ、バッテリーの充電及び35mm水中カメラ等の点検、整備を行なう。明日の海底調査記録の準備を完了する。
11:30 林田、石原、土肥、小川(泰)、小川(光)会員、荒木顧問の6名は福岡より鷹島町教育委員会に到着する。
13:00 教育委員会にて今年度の潜水調査区域の選定及び調査地点の状況を説明し、本日の作業の打ち合せを行なう。
13:30 調査船「ひさご丸」に二班に別れて乗船し、神崎地区の調査地点に到着。陸上班は測量器材を測量地点まで運ぶ。基準点A及びB地点の杭の設置位置や距離の選定を神崎地区潮時表を参考にしながら行なう。海上班は携帯無線器を使用して陸上班との交信を行ないながらA杭から沖へ100mロープを調査船から海底に延ばしながらD地点を決定した後、橙色ブイを投入する。同様にB地点の杭から沖へC地点を決定して、橙色ブイの投入を行なうと共に、100mロープを調査船から海底へ張る。潜水調査区グリッドの25mライン、50mライン及び75mライン100mロープを南北方向に海底に設置する。
17:00 予定していた潜水調査のための準備作業をほぼ完了して、本日の作業を終了した。高野、向原両会員は夕方迄に宿泊先に到着する。
7月23日(土)晴れ
9:00 調査開始、本日の調査作業の説明を鷹島町教育委員会で行なう。
10:00 神崎港に待機する「ひさご丸」に潜水器材を積み込む。潜水調査地点海域に移動する。潜水調査区の各100mロープの海底設置の状況を水中ビデオ及びカメラで記録する。
10:30 第1回目の潜水調査を行なう。調査海域は満潮の時刻を2時間ほど過ぎていたが、水深は海図に示された数値より2mほどさらに深くなっていることを考慮に入れる。各グリッドを調査する担当者を二人一組として決め、調査船で其々のブイマーカー地点まで担当者を誘導し、潜水を開始する。海底に設置されたグリッドのロープにそって目視による潜水調査を行なう。
12:00 午前の潜水調査を終了。昼食のため教育委員会へ一時もどる。
13:00 午後の潜水調査再開する。
15:00 昨年度の調査で確認した久保ノ鼻の岬海底の碇石の位置確認と撮影を行なう。また岬を挟んで、東側と西側の両地域の海底を再度目視する。海底の透明度は決して良好ではない。
17:00 本日の潜水調査を終了する。台風の接近が懸念されるために、予定していた明日の潜水調査を断念する。
7月24日(日)晴れ
9:00 調査器材収納作業を行なう。
10:30 解散
5.調査区域
今回、協会が行なう潜水調査区は長崎県北松浦郡鷹島の南岸7.5kmに及ぶ周知の遺跡として定められた海域にある。所在は鷹島町神崎地区地先公有水面となっている。調査区では潮の満干の差が比較的大きいために、潮間帯が広い範囲で出現する。前年度1993年7月に潜水調査を行なった海域は、久保の鼻の岬を隔てた西側にある。
潜水調査区域が昨年の調査区域のさらに東へ移動した位置にあるのは、これ迄行なわれた神崎地区海域の調査区域と重ならない区域を調査地点として選定する必要があった。海底の調査区を正確に設定するため、陸上に測量可能な良好な条件を備えた場所を決定しなければならない。そのために今回も鷹島町教育委員会より1/500の地図の提供を受け、この地図を参考にして、以上の諸条件を満たす調査区を決定した。
6.調査の方法
調査区の設定(Fig.3)
(1)潜水調査対象地点は長崎県北松浦郡鷹島町神崎地区(Fig.3)にあり、その調査対象面積は10,000㎡である。前年度(1993)に潜水調査を行なった地点の調査対象面積も10,000㎡であった。この面積は2日間の潜水調査期間で全調査対象区域を潜水して、調査することは可能であると判断できた。この結果を考慮して、今年度もこの調査対象面積を効率良く調査するために、前年度に採用した調査方法や目視による潜水方法を用いた。
(2)調査区の設定は陸上の定点からトランシットにより方向を定め海上に100×100mの調査区を設定する。(Fig.4)先ずは基準点AかちB地点を結んだ直線をベースライン(0度)とし、基準点Aと地点Bの距離は100mである。
(3)基準点Aは久保ノ鼻を回わりこんだ岬の東側の海岸の任意の点である。その場所は比較的平坦な潮間帯に位置している。この場所にトランシットをたて(Fig.5)、ここに設定した後、海上に向かってベースラインから左90度を設定した。この地点より沖へ向かって潮間帯で海底が露出する地点を考慮して測る。これは先ず、①陸上の海岸には約数m程の干満の差があるため、この誤差を修正することにある。次に、②潜水調査を必要としない潮間帯地域を除くことである。この2点の理由から、潮間帯にあたる海岸に杭を立て、地点Aを定める。この地点より水平面距離100mを測りその地点をDとする。(Fig.6)
(4)B地点より海上に向かってベースラインから右90度を設定する。A点と同様に、潮間帯の海岸に杭を打ち、この杭をB地点とし定める。このB地点から沖へ水平面距離100mを測り、それをC地点とする。
(5)以上のA、B、C、D地点で囲んだ面積10,000㎡の範囲が今回の調査対象区域である。
(6)海底に調査区の範囲を設定するために地点C、DはT字形鉄筋を海底シルト層中に深く打ち込み固定させる。更に海面にはT字形鉄筋よりロープに結んだ橙色の¢200mmのブイを付ける。更に潜水調査区を小グリッド区域(25×100m)に分け、0mライン、25mライン、50mライン、75mラインと100mラインに100mロープを沖合から海岸部への海底に設置する。此等の地点を示す橙色の¢200mmのブイを海底より5個海面に上げ、設置する。(Fig.8)因みに此等のブイは調査終了後回収し、調査海域より撤去した。
(7)この海底の調査区域及びグリッドの設置等の作業及び潜水調査に調査船の「ひさご丸」を使用した。潜水調査方法(Fig.8)A、B、C、D地点を囲んだ対象調査区域内を水中考古学者及び潜水士計10名による潜水調査を行なう。
海底の透明度は決して良好ではなく、透明度は約3mである。調査区域の海底は概ねシルトが堆積した底質を呈する。(Fig.7)調査区の水深は最も深い箇所で13m、逆に浅い箇所は干潮時に海底が現れる。その為に、目視による実質的な調査対象区域は陸地側の30mから沖合100m迄の7,000㎡である。目視による調査区域の潜水調査は2名1組で、各調査担当者が海底に張られた25×100m小グリッドのロープに沿って、その片側づつ10~15mの幅の範囲で海底を目視しながらゆっくりしたスピードで移動しながら、小グリッドを往復し、潜水調査を行なう。(Fig.10)100mロープには10m毎に距離の数字を印したテープを付け、調査員が遺物を確認した場合には、海底で遺物の位置関係を把握したり、記録するのに役立つのである。海底で確認された遺物については、海底からの引き上げは原則的にせず、その位置関係の記録方法として35mm水中カメラ及び水中ビデオカメラによる撮影を行なう。更に重要であると、評価をしたものについてはその位置を正確に計測することにした。
7.調査作業の安全対策
調査の安全対策には先ず、唐津海上保安部へ調査に先立って、事前に「作業許可申請書」を提出することである。この書類を項目毎に説明をすると、書類の項目は以下の通りである。
1.目的及び種類
2.期間及び時間
3.区域又は場所
4.方法
5.その他(標識、安全対策等、作業基準等)
その他に必要とする書類は
1.緊急事故発生時の連絡一覧表
2.作業区域図
3.警戒船に関する業務講習終了証明書「受講証明書」一高野晋司、長崎第965号、長崎海上保安部-
4.調査船の船舶検査証明書
5.動力漁船登録標
6.警戒船調書
7.警戒船設備等の有無を証明する書類等である。これらの書類を申請書に添付する。この申請書に記述した安全対策どおりに今回の海底調査を行なうことであり、手続きは以下のように行なった。
(1)調査中の調査補助及び安全対策として警戒船を調査対象区域に常時待機させ、他の船舶に十分注意し潜水調査を行なうことにする。
(2)警戒船はその船上に、国際信号旗A旗を表す信号(旗)板を示す標識や形象物を掲げ、警戒員を配備する。
(3)海上の状況を天気予報等で事前に調べる。
8.調査作業の安全基準
(1)下記事項時には作業を中止する。風速が12m/秒以上の時、波高が1.5m以上の時
(2)その他
大しけの時には、警戒船は鷹島町阿翁浦港を避難港として定め回避し、しけがおさまるまで待機する。
9.調査の成果
神崎地区海底に設定した調査対象面積は10,000㎡である。そのうち、調査対象区域には干潮時に海底が露出する地点(0~30m迄)があるので、この露出した海底区域(3,000㎡)は調査員が踏査して、元寇関係遺物を表採することにした。そのため潜水調査した箇所は30~100m問の海底であった。(Fig.11)今回の調査区域で目視による確認調査では遺物の確認までにはいたらなかった。潜水調査を行なった調査区は潮間帯を除いて殆どの調査グリッドがシルト層の堆積であるため遺物を海底面で確認することはできなかった。鷹島南岸の「周知の遺跡」の海底はシルトの厚い堆積層から成り立っていることがこれまでの鷹島海底遺跡で行なわれた調査から判明している。そして元寇関係遺物は700年の問に相当数がこのシルト層に埋没しているため海底面で発見されるのは稀となる。この海域では大きなしけが幾度とない限り、海底下のシルト層約-1~-2mの間に埋没している元寇関係遺物が発見される機会は少ないといえる。陸地に近い海底では礫あるいは砂混じりの底質であるため、遺物は海底下に沈まず発見される機会は多くなる。そのような底質の海底面で発見されたのが、昨年の碇石である。発見された地点の海底の状況はシルトではなく砂質層の上で検出されていた。ここに重量のある碇石が海底下に沈んでいかなかった理由がある。この碇石は調査対象区域の東側にある久保ノ鼻付近海底の目視の調査を緊急に行なった際、この岬の沖70m付近水深7mの海底で両方から大きな岩の問に挟まれるように碇石が発見された。長さは1m未満の比較的扁平な形状をなしている。これらは中央部から欠損した半折れの碇石と思われていたが、最近の神崎港の緊急調査(1994~95)の2年間にわたる海底調査で、2個の碇石が木製碇の丁身を両側から挟むように装着されて、海底で検出された。このように2個の碇石が一組になっていることが判明した。このような碇石以外にも今回の調査では、欠損した2本の碇石が近くで確認できた。(Fig.12)更に甕のロ縁部もこの付近の海底で確認している。この海域は久保ノ鼻の岬が沖の海底に延びていき、岩石が海底に転々と沖に向かって存在する。遺物はこの様な海底では岩の間に挟まれるようにして発見されることがあるであろう。この地点は将来、重要な潜水調査地点となり得る箇所である。
今回設定した調査グリッド内では転石が多く、中には碇石を想定しうるような破片も確認されている。神崎地区海底の元寇関係遺物の確認調査は、西から協会による1992年の第1回調査、そして1993年の第2回調査、更に1994~95年に行なわれた鷹島町教育委員会による神崎港改修工事に伴う緊急調査。この調査区域の東側海域では第1回学術調査の昭和57年度(1982)における潜水調査が行なわれ、つづいて1993年の協会による調査がある。これらの調査区のさらに東側の海域で、今回の潜水調査を行なった。これ迄の調査区を「鷹島海底遺跡」の周知された海域の範囲の中で、その調査地点を確実に地図上に記録し、さらに遺物の出土地点を測定し、それらの分布状況を把握することができた。
10.まとめ
今回の海底調査の目的は目視による元寇関係遺構及び遺物の確認を海底で行なうことであった。海底に埋蔵文化財としての遺構及び遣物の存在を確認するため考古学者が自ら潜水を行なうことば、日本の水中考古学の現状を考えると、意味のあることである。
水中考古学における調査方法のひとつとし、現在の海底面に現れている遺構及び遺物を潜水して目視によって確認することは最も確実な調査方法であり、この調査自体は莫大な調査費を必要としない。またこの調査方法は調査の為の準備期間が少なくて済む。しかも少ない調査費で実施できることがその特徴である。海底で遺物及び遺構の発見はこの調査方法が最も確立が高いのである。しかしこの調査方法にも課題はある。目視による潜水調査は海底の底質の違いが、その成果に大きく左右される。海底が砂質や礫質であれば比較的、遺構や遺物は海底下に沈まず、海底面に残る機会が多いのである。
しかし日本の自然地形では海に流れこむ大小の河川が多いうえに、海岸部の開発が盛んにおこなわれ、海岸部の陸地化が全国的に進行している。また工場や家庭からでる廃棄物の海上投棄も日本の沿岸海域で行なわれている。下水道や汚水処理といった社会資本の整備も不十分である。沿岸では養殖漁業による海洋汚染も最近は問題になっている。これらの原因は日本周辺の海の環境をさらに悪化させている。このために沿岸部の海底はヘドロやシルト質の底質がかなりの規模で広がってきている。現在このように日本の海も自然形態が壊れ、環境が破壊されている。汚染された海の透明度は著しく低下し、このことは海底調査をより困難なものにする要因になる。日本の海底調査が透明度を克服しなければ、専門学問としての水中考古学の存在はありえないであろう。現在、海底調査を行なううえで精度の高い調査が出来なくなってきているのは憂慮すべきことである。
今回の潜水調査の調査対象面積(10,000㎡)の70%(7,000㎡)を目視により海底調査を行なった。残りの30%にあたる3,000㎡は潮間帯となる海底であり、底質も岩・砂質の地域である。そのため今後、潜水調査を必要としない。今回の調査では潜水調査を行なう必要がある調査対象面積から最終的にこの3,000㎡の潮間帯となる区域を省くことができた。
潜水調査した区域(30~100mの間の70×100mの面積の7,000㎡)の海底では元寇関係遺物は確認できなかったが、海底にはシルトがかなりの厚さに堆積しているため、元寇関係の遺構や遺物が海底下に埋没している可能性がある。この堆積したシルト層の区域は今後、エアーリフトを使用した発掘調査を行なうべきであろう。そのためには事前に海底下の科学的なデータの収拾が必要となるであろう。そのためにはサブボトム・プロファイラー(地層探知機)やボーリング、或いは試掘トレンチを海底の数箇所に設定した予備調査を行ない、予備調査でのデータに基づいて、発掘調査の候補地点を絞って本格的な発掘調査へと進むべきであろう。
これ迄鷹島海底遺跡で協会が行なった調査地点の潜水調査では、元寇関係遺物の確認のため今後、本格的な発掘調査に向かわずして、鷹島海底遺跡で画期的な成果が達せられたことは難しいと思われる。
このことば九州・沖縄水中考古学協会に将来大きな課題を与えることになると共に、協会の鷹島海底遺跡での本格的な発掘調査への可能性をおおいに期待したい。
註
「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」第6章 探査・調査法 古文化財
に関する保存科学と人文・自然科学 総括報告書、昭和59年3月
「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」平成元年一三年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書、平成4年3月
「床浪海底遺跡」長崎県鷹島町教育委員会・床浪海底遺跡調査団、1984
「鷹島海底遺跡」長崎県鷹島町教育委員会、1992
前註(2)と同じ
「鷹島海底遺跡Ⅱ」鷹島町文化財調査報告書第1集 長崎県鷹島町教育委員会、1993
「鷹島海底遺跡」一鷹島町神崎地区潜水調査報告書Ⅲ- 九州・沖縄水中考古学協会編 1994
「鷹島海底遺跡」-鷹島町神崎地区潜水調査報告書一 九州・沖縄水中考古学協会編平成4年8月
a「鷹島海底遺跡」一鷹島町神崎地区潜水調査報告書Ⅱ- 九州・沖縄水中考古学協会編、1993
b 林田 憲三「鷹島町神崎地区潜水調査:1993年度調査」九州・沖縄水中考古学協
会会報 第3巻第1号、2-11頁、1993年10月
c 石原 渉「1993年度神崎地区潜水調査: 出土遺物」九州・沖縄水中考古学協会
会報、第3巻第1号、12-13頁、1993年10月
水中考古学国際シンポジウム開催さる 井上 隆彦
はじめに
11月30日~12月1日の2日間、韓国ソウル市の戦争記念館(War Memorial Museum)において、1995年度水中考古学国際シンポジウムが開催された。九州・沖縄水中考古学協会は、主に林田会長が主催者の韓国側実行委員会と緊密な連絡のもと、パネリストの人選から招へいに至るまで、当シンポジウム開催に全面的協力を行なった。
シンポジウムには、韓国を中心に日本、フィリピン、イギリス各国を代表する水中考古学者や関係者ら多数が参加し、活発な討論が行なわれた。日本側から協会を代表し、副会長の石原渉氏が「日本の水中考古学」をテーマに発表を行なった。
なお、協会からは林田憲三、石原 渉、高野晋司、塚原博、石本清、玉井敬信、小川光彦、牧野光隆の各氏および筆者の9名が参加した。
国際シンポジウム韓国開催の経緯と目的
韓国における水中考古学の調査と研究は、1975年に全羅南道新安道徳沖海底より、中国の宋・元代の陶磁器が地元漁師のえび網から偶然に引き揚げられたことから始まった。1976年に、韓国海軍潜水チームの協力を得て調査したところ、大量の陶磁器を積んだ船が発見された。その後の発掘調査で船荷の中から日本の「東福寺」の木簡が発見され、当沈船が14世紀はじめに、中国の寧波、高麗、日本の博多の三国間を航路とする中国元代の貿易船であると推定された。高麗青磁を含む何万点もの学術的に価値の高い陶磁器類などの引き揚げにより、一躍世界の脚光をあびることになったのは周知のとおりである。1983~1984年に、同じ韓国南西部の莞島海域で今度は朝鮮の伝統的建造方法を使った貿易船が出土した。この貿易船は、海南地方窯産の30,000点以上におよぶ青磁から11世紀中・後半頃活躍した船と推定され、この船が古来より朝鮮に伝わる伝統的な造船技術、船体構造を知る上で極めて重要な発見となった。
さて近年韓国では、亀甲船の調査・発掘の機運が高まって来ている。1592年(文録の役)と1597年(慶長の役)に豊臣秀吉が朝鮮に出兵した際に、秀吉の水軍を向かえうった韓国の英雄、李舜臣将軍率いる亀甲船の大活躍により、日本水軍の大半をことごとく打ち砕いたという。亀甲船は李将軍が考案したといわれる特殊な軍船で、その名が示すとおり、亀の甲羅のように船体の上部を固いふたで閉じ、船全体を鎧のように装甲した軍船である。この国難を救った亀甲船の調査・発掘計画のためプロローグとして、今回韓国での国際シンポジウムが企画された。
一方で、九州・沖縄水中考古学協会にとっても、韓国をはじめ世界各国の水中考古学者やその関係者らと学術交流を通じ各種の情報交換や互いの親睦を深めるよい機会であった。と同時に、世界の水中考古学の将来の展望や当協会の存在、活動状況をアジアや世界の国々に知ってもらう好機であり、シンポジウム参加を決定したものである。
シンポジウムのテーマおよび内容
今回のシンポジウムでは、はじめに韓国海軍士官学校長である柳三男中将(Ryu Sam Nam)による開会の辞と歓迎のあいさつがあった後、韓国考古学会を代表し、会長の崔 夢龍(Choi Mong Iyong)教授の記念講演「世界水中考古学の現況と考古学的側面」が行われた。続いて、各国の代表者からそれぞれ次のテーマで発表があった。以下簡単に概略を報告しておく。
11月30日
「韓国水中考古学の現況と展望」東亜大学考古美術史学科教授沈 奉謹(Sim Bong Keun)氏
「日本の水中考古学」九州・沖縄水中考古学協会副会長石原 渉(Wataru Ishihara)氏
「Archaeology and History of the San Diego, a 1600 A.D. Spanish Galleon Located offshore Fortum Island, Philippines」フィリピン国立博物館水中考古学部長 Eusebio Z. Dizon氏
12月1日
「福建地区水中考古工作概論」中国福建省博物館副主任 栗建安(Li Jian An)氏は、氏の都合により欠席。代りに韓国側代理人により概略発表。
「The Recovery of Information from Historic Shipwrecks: Strategies and Methodology」英国サザンプトン大学海洋考古部教授 Jonathan Adams氏
以上各発表終了後それぞれパネル・ディスカッションにうつり、活発かっ熱心な質疑応答があった。韓国側からの質問の内容は、主に下記の4点であった。
1.発掘調査資金について(スポンサーとその調達方法および金額)
2.海底から引き揚げた遺物の保存処理について
3.海底探査機器およびその使用方法について(サイド・スキャンソナー、サブ・ボトムプロフィラーなど)
4.各国の水中考古学に対する関心度、国や大学の支援体制および研究者の数についてなお、シンポジウム終了後、同記念館にて韓国海軍士官学校主催の歓迎レセプションが開かれ、海軍音楽隊の演奏を背景に伝統ある美味な地元韓国料理でおもてなしをうけ、くつろいだひとときを過ごした。
おわりに
2日間のシンポジウムは成功裡に終わった。韓国海域には、亀甲船を含むたくさんの水中遺跡があると聞く。亀甲船の調査発掘に際して、韓国海軍がこれを全面的に支援する国家的規模での運営体制を整えており、韓国側の並々ならぬ決意がうかがえる。協会としても、韓国側からの要請があれば、その発掘に全面的に協力をしたいものである。海の文化や歴史を通じた日韓両国のさらなる友好親善の輪が広がることに期待したい。
また、シンポジウム開催中に、東亜大学の沈先生(前述)を会長とする韓国水中考古学会が設立される運びとなった。実際の運営は本年1月1日から始まる見通しである。学会の本部事務所は、同大学海洋工学研究所内に置かれる。まことに喜ばしい限りである。
と同時に、日本の水中考古学を取り巻く環境の貧弱さ、国や大学の理解度の乏しさを嘆かずにはいられない。日本を除くすべてのシンポジウム参加国が、大学ないしは国立の研究所から参加している。日本側としても、現状をしっかり認識し、諸外国に負けないような体制づくりが必要であろう。
シンポジウムの合間に、沈先生や韓先生ら多数の学者先生方から分不相応のおもてなしをいただいた。心暖まる韓国側のご好意に対し、一同心より厚く御礼申し上げます。
また、中国側の不参加は残念であったが、次期シンポジウムの参加に期待したい。超多忙なスケジュールではあったが、大いに実りのあるシンポジウム参加であった。
最後に、亀甲船の調査発掘が成功裡に進められることを念願するものである。
カムサハムニダ(ありがとうございます。)!
パグロ(海へ。)!
セゲロ(世界へ。)!
国立海事博物館を見学して
なお、シンポジウム終了後の12月2日に、木浦市にある国立海事博物館の見学を兼ね、研究者と交流し、今後の研究協力について話しあった。
国立海事博物館は1994年に開館したが、ここには前述した新安沖海船および莞島船が復元展示されている。詳しくは別稿にて、小川光彦氏より具体的な報告があると思うので、ここでは私の感じたところを述べるにとどめたい。
さて、船内に横隔壁を持つ構造は、古くから中国船の特徴の一つとされている。ひとつの疑問点は、中国の泉州船は12枚の隔壁で船内を仕切っているのに対し、新安船(Fig.1)はわずか7枚の隔壁で区切っている。末・元と時代の違いはあっても、同じ中国船でなぜこうも違うのであろうか?
ふたつ目は、外板の張り方である。新安船の外板の張り方は、外板の角を少し切欠いて重ねる一部切欠きよろい張り方式を採っている。が、船首部では切欠きをつけずにフラットな平張りへと張り方を変えているのはなぜであろう?
この二つの疑問点は、今回の訪問では時間の都合で、明らかにできなかったが、近い将来、日中韓の三者による十分な研究討論ができたら幸せである。
さて、莞島船(Fig.2)は前述のとおり、朝鮮に伝わる建造技術の伝統を受け継いでいる。船底は平底で竜骨は備えていない。外板は切欠きをつけたよろい張りで構成されているが、外板の内側には中国船と違い、隔壁を入れず多数の梁によって船体両側外板をつなぐ独特の建造法である。朝鮮に船に関しては、文献の欠如もあり、一部を除きまったくその内容が分っていなかっただけに、莞島船の発見は学術的にも極めて貴重なものであろう。
国立海事博物館での宋・元代を代表する莞島船、新安船が見学できたことは、望外の喜びである。まさに「百聞は一見にしかず」で、その迫力に圧倒された。また、これらの沈没船の船の保存や復元展示では、韓国の方が一歩先行しており、日本とはその規模や取り組み方に大きな違いを感じたのは、ひとり私だけではあるまい。
最後に、お世話をいただいた当研究所学芸研究室長の金 鏞漢氏、木浦大学の趙 慶寓教授はじめスタッフの方々、通訳をお願いした李 正鎬氏に厚くお礼申し上げます。