九州・沖縄水中考古学協会会報
第2巻・第3号
1992年9月31日発行
小さな学史(石弾) 三島 格
平成4年6月13日夜の事務所開きの折、『鷹島海底遺跡』(長崎県鷹島町教委)を拝受した。高野晋司氏による石弾をなつかしく拝読した。というのは昭和57年にこの遺物を紹介したことがあるので、帰宅後上記の拙文(註1)を、林田憲三氏を通じて高野氏のお手許にとどけた。その後、拙文の原典となった新聞切抜も遺っていたので、補遺の意で以下に要約・紹介する。朝日新聞の昭和56年7月10日(西部版)に、写真入りで出ている。①見出しは「元軍の石弓の弾丸?鷹島沖で引揚げ」②水中考古学研究班(団長・茂在京男東海大学海洋学部教授)により、7月8日引揚げ」③形状をのべた後・茂在教授による使用法と『入幡愚童訓』に出ている元軍の石弓使用を紹介 ④伊万里市在住の郷土史家古賀稔康氏(76歳)の談一石弾の実物がみつかったのは初めて。この切抜も事務局に届けておいた。
註1 三島格「南島・台湾蘭嗅の石弾・円礫」八幡一郎 編著『弾談義』P65-78 昭和57 六輿書房 東京。のち三島『南島考古学』 平成1 第一書房 東京に収録
第一回学術シンポジウムの開催にあたって 塩屋 勝利
現職:福岡市教育委員会埋蔵文化財課第2係長
1944年 長崎県北松浦郡大島村生まれ。盈科小学校、武生水中学校、壱岐高等学校卒業
1964年 九州大学文学部入学
1969年 九州大学文学部史学科考古学卒業
1970年 福岡市教育委員会文化課就職
1983年 福岡市立歴史資料館文化財主事
1990年 現職
主な論文「金印出土状況の再検討」、「玄界島の海底陶磁」、「王葬銭の出土例に関する覚書」ほか
はじめに -九州・沖純水中考古学協会とは-
九州・沖縄水中考古学協会は、1986年に林田会長を中心に数名の有志が集まって準備金を設立し、以後地道な宣伝活動を積み重ねながら、1990年9月に正式に発会した。これまで2年間の活動では、協会員の潜水技術研修、文化庁委託事業の長崎県教育委員会による鷹島沖海底遺跡調査への参加、季刊の機関誌発行、それに個人会員及び賛助会員の拡大活動を行ってきた。現在の会員数は個人会員89名、賛助会員7社となり、本年4月には、福岡市中央区天神4丁目の交通至便地に念願の協会事務所を開設した。
第1回学術シンポジウム壱岐開催の目的
このように、協会の活動は少しずつ前進しているが、一般には、水中考古学の存在と意義は周知されていない。そこで、協会内部から水中考古学についてアピールする機会が必要であるとの意見が出され、そのためのシンポジウムを開催しようということになった。
協会の実際の活動範囲は、今のところ福岡を中心とした地域であり、調査活動も福岡市の玄界島や長崎県鷹島沖など玄界灘海域である。したがって、シンポジウムのテーマは、水中考古学から見た玄界灘地域の歴史を考えるということになったものである。開催地については、記念すべき第一回シンポジウムは協会本部がある福岡市でという意見が強かった。しかしながら、やはり海底遺跡の調査活動を課題とする本協会にとっては、「魏志倭人伝」にも登場し、古代遺跡が数多い壱岐の島でという意見もあり、今後の協会の活動を展望して壱岐開催を決定したものである。
シンポジウムのテーマ
今回のシンポジウムでは、西北九州沿岸と島境地域、壱岐、対馬の陸上の考古学的成果をもとに、水中考古学の立場からどのようなことが考えられるかを討論しあうものである。この地域の特色は、大陸と九州本土を結ぶ「海の回廊」と言われる所であり、各時代を通して間断無き大陸との交流が行われてきたところである。とくに近年の発掘調査では、水稲農耕開始期以降、弥生時代から中世に至るまで中国大陸・朝鮮半島との文化交流を示す遺跡・遺物の発見が相次いでいる。また、韓国においても、北部九州で作られたものが遺跡から出土する例が増えつつある。これらはものだけが移動した訳ではなく、人々の往来があったことを示すもので、その交通手段や方法を明らかにする必要がある。
このように、玄界灘地域は日本歴史上極めて重要な地域であるが、その歴史を具体的に明らかにしていくためには、今後ますます考古学的調査成果の蓄積が望まれている。今回はこうした玄界灘地域について、「大陸との交流」に焦点を絞り、水中考古学の立場から陸上の考古学的成果との比較検討を行うものである。
壱岐の水中考古学の展望
今回のシンポジウム開催地壱岐は、旧石器時代から古代・中世にいたる遺跡が数多く知られている。弥生時代の集落遺跡として著名な原ノ辻遺跡やカラカミ遺跡があり、さらに壱岐の中央部に分布する巨大な古墳群は圧巻である。これらは当時の「壱岐府」の実力を示すものであるが、この実力の経済的基盤を明らかにする必要が有るだろう。
壱岐には平野部や内陸部の遺跡だけでなく、郷ノ浦町の名切遺跡や鎌崎遺跡(縄文時代)、勝本町のミルメ浦遺跡(奈良時代)などのように海浜部に立地する遺跡がある。「魏志倭人伝」には壱岐について「やや田地有り。猶、食するに足らず。又、船に乗りて南北に市糴す。」とあるが、この「南北市糴」の具体的な内容について水中考古学の立場から考えることも重要である。さらに、鎌倉時代の二度にわたる元寇については、陸上の遺跡だけでなく、周辺海域の海底調査が必要である。
このように、壱岐は考古学的に極めて重要な魅力的な島であり、今回のシンポジウムでは、このような壱岐の島の水中考古学の展望もあわせて討議するものである。
古事記と海 中山 千夏
1948年 7月13日、熊本県生まれ。
最終学歴 麹町女子学園卒業。
1959年 劇作家・菊他一夫に招かれ東京へ。東宝・芸術座『がめつい』に出演。
1980年 参議院選挙全国区に立候補、第五位で当選、法務委員会に所属。
著 書 『国会という所』(岩波新書)『新・古事記伝』(築地書館)など多数。
古事記と海の関係は、とても微妙なものに見えます。
古事記の人代記(中巻・下巻)には、海の匂いがあまりしません。歴代ヤマト朝廷天皇33代の記録のうち、海にかかわる記事を掲載しているのは、たったの8記だけ。それも、少しでも海に触れたものを全部拾っての話であって、直接、海にかかわる物語を持つ天皇となると、せいぜい二人くらい。ヤマト朝廷は海から遠い奈良や近江に都を置いていることが多いので、それも無理はない、というところでしょうか。
一方、神代記(上巻)の神話には、海の香り豊かな物語が少なからず見えています。魏志によれば、倭国は海洋国であったようです。神武がその倭国の出身だとすれば、初代天皇神武の誕生を導く序曲である神代記に、海の匂いが濃厚なのも、当然というものでしょう。
ところが、これもまたよく見ると、神武の祖先神にまつわる物語には海が見えず、むしろ、大国主など他の神々の神話に海が豊富なのです。また、たしかに神武の父は、有名な海幸彦・山幸彦の神話、海の香り豊かな神話によって生まれていますが、そこでは山幸彦が海幸彦を負かすことによって、支配者となり神武の直接的な祖先となっています。しかも日本書記には、かつて山幸彦が負け、海幸彦が勝つ伝承があった痕跡があります。いったい古事記は、ヤマト朝廷には、海に親近感を持っているのか、いないのか?
とても結論にはおよびませんが、みなさんにも一緒に推理を楽しんでいただけるよう、その材料として、古事記では海がどのように扱われているか、その概略なりともお伝えできれば、と思っています。
日本水中考古学の課題と展望 坪井 清足
現職:財団法人大阪文化財センター理事長
1921年 大阪市生まれ
1948年 京都大学文化部史学科考古学卒業
1955年 奈良国立文化財研究所入所
1968年 奈良国立文化財研究所平城京跡発掘調査部長
1974年 奈良国立文化財研究所センター長
1977年 奈良国立文化財研究所所長
1986年 現職
主な著書 「発掘が語る日本史」など編著書・論文多数
考古学とは
考古学の定義は、「遺跡・遺物を通して人間の過去を考える学問」というものであり、19世紀の近代ヨーロッパから始った。日本では、1877年(明治10)のアメリカ人動物学者エドワード・モースによる東京の大森貝塚の発見と調査が近代考古学の始りである。当初は人類学の分野であり、考古学が独立した学問となったのは、1909年(明治42)に京都帝国大学に初めて考古学教室が開設されてから後である。
日本考古学の発達
以来、日本考古学は「日本人の過去を考える学問」として発達するが、取り扱う過去とは文献資料が残されていない時代であった。その独自の方法は、遺跡の発掘調査における層位学的方法、出土遺物の分類による形式学的方法によるものである。日本考古学の発達過程は、戦前と戦後で大きく区分される。戦前の考古学は縄文土器や弥生土器など出土遺物の形式学的な編年研究を中心とするもので、昭和10年代になって農耕社一会を展望する弥生土器研究が進められるようになる。歴史学における科学的研究が逼塞させられた暗い時代を経た戦後になって、考古学も新しい視点と方法で学問的な再出発をする。対象とする「人間の過去」も拡大し、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代など文献資料が残らない時代だけでなく、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸時代までも領域とするようになっている。発掘する遺構も集落跡、墳墓、都城跡、製鉄跡・窯跡・水田跡などの生産遺跡というように多岐にわたる。今や日本考古学は、人間の過去のあらゆる遺跡・遺物を取り扱うといっても過言ではない。
日本水中考古学の課題と展望
しかしながら、これらはあくまで陸地に残された遺跡・遺物であり、日本歴史の再構成には限界があると思われる。現在、世界の考古学的な状況を見ると、ヨーロッパや中近東を中心として陸上の遺跡発掘とともに海底遺跡の潜水調査も進んでいる。特に地中海海域においてはギリシア・ローマ時代の沈没船の調査が活発に行われている。東アジアにおいては、中国や韓国で宋や元代の沈没船が調査されている。一方日本においては、琵琶湖湖底遺跡の調査が水中考古学では著名である。この九州鷹島沖の海底調査も継続的に行われている。最近の文化庁の調査では、全国の水中遺物が分布する場所は約3,500か所と報告され、四面を海に囲まれた日本列島においては、今後は海浜部の遺跡とともに海底遺跡の調査を進めて行くことが重要である。とくに中国大陸や朝鮮半島と対時する玄界灘海域や日本海は「東の地中海」とも呼べる海域であり、今後の海底遺跡・遺物の調査が大いに期待されるところである。このように、水中考古学という分野は日本考古学の発達過程で、新しい歴史の1ページを創るものと言えよう。
水中考古学の実際 荒木 伸介
1936年東京生まれ。
東京教育大学卒。東京大学工学部で日本建築史を学び、奈良国立文化財研究所所員、東京芸術大学、筑波大学、立教大学講師を歴任。現在、平泉郷土館館長と埼玉大学講師(非常勤)を兼務。1975年から「開陽丸」引き揚げ調査を指揮。著書に「水中考古学」など多数、FEJAS理事、九州・沖縄水中考古学協会顧問
「水中考古学」という言葉は、一般になんとなく理解され、なんとなく定着しているようである。しかし、その実態を承知している人は、考古学研究者のなかでも決して多くはない。それは陸上とは比較にならないほどまともな調査の実際例が少なく、冒険的宝探しと同一視されるような調査もないわけではないからである。
そもそも「水中」という言葉は正確ではない。調査・研究の対象となる遺構・遺物は水中に浮遊しているのではなく、水底面あるいは水底深く埋もれているのである。したがって、「水底考古学」の方がより正確なのだが「推定」と「水底」を混同、誤解される恐れもあり、「水中」で納まっている。因みに中国では「水下考古学」であり、より正しい表現といえよう。
日本の海岸線は4万キロを越え、内陸部には多くの湖沼が存在する。これらの場所には、多くの歴史を伝える遺物・遺構が埋没している。最近、文化庁の委託研究によって調査された結果では、全国で約3,500カ所の存在が報告されている。実際はこれより遥かに多いはずであるが、簡単には発見されにくい位置にあり、なかなか正確には把握できないのが実情である。これらの遺跡の内で実際に発掘調査されているのは十指に充たない。まったく陸上とは比較にならないのが現状である。数少ない実際例の内で代表的なものが幕末の動乱期に北海道江差沖に座礁、沈没した戦艦「開陽丸」の調査であり「鷹島海底遺跡」である。
海底の発掘調査も陸上の調査も考古学の手法としては基本的に変わるものではない。しかし、遺跡を取り巻く環境が大きく異なり、調査をより困難なものにしている。空気と水、重力と浮力といった自然条件の相違が、いろいろな面で人間の活動を制約する。さらに近年は、水質汚濁が進み調査をより困難にしている。水中考古学の発展は、今後の地球環境の保全と密接な関係にある。
環東支那海文化交流圏と吉野ケ里遺跡 高島 忠平
昭和14年12月 飯塚市生まれ 52歳
昭和39年3月 熊本大学法文学部史学科卒(東洋史学専攻…弥生時代専門)
昭和39年4月~49年3月 奈良国立文化財研究所勤務
(47年10月~49年3月まで滋賀大学非常勤講師併任)
昭和49年4月 佐賀県庁勤務(文化課)
昭和61年4月~63年3月 県立博物館副館長
昭和63年4月 文化課参事
平成2年4月~現在 文化財課長
これまで、平城宮跡発掘をはじめ、安永田遺跡、莱畑遺跡、二塚山遺跡等県内の重要な遺跡の発掘を手がけ、このたび吉野ケ里遺跡発掘の指揮をとる。邪馬台国九州説派 日本考古学協会会員 著書「古代史発掘」「日本城郭大系」「新肥前風土記」「吉野ケ里と古代遺跡」等
吉野ヶ里遺跡は、約四十ヘクタールに及ぶ弥生時代の一つの政泊的地域社会(クニ)の政泊・経済・宗教の中心であった所である。この遺跡成立のバックグランドは、有明海に面した筑紫平野でありその西半の佐賀平野である。筑紫平野は、筑後川を始めその他の大小の河川の沖積作用によって形成されているが、有明海の大きな潮の干満差もこの平野の形成に重要な役割を果たしている。また、有明海を通じての内外の交通においても特異な役割をもっている。潮の大きな干満によって内海としての有明海から外海へ、外海から内海へ一挙に航海することができ、河川を通じての内陸の水上交通も容易である。吉野ヶ里を始め、ノ佐賀平野各地の弥生時代の人達は、こうした自然条件を活用して、内外との交通・交易を行っていたと考えられる。筑紫平野に多く見られる中国大陸や朝鮮半島系の文物は、有明海を通じての交易で招来されたものが多いのではないか。
吉野ヶ里遺跡に見られる、弥生時代前期の初期の青銅器鋳造といった先取的現象は、筑紫の沃野を背景に熟成しつつある農耕社会が背景にあるのは勿論であるが、佐賀平野と朝鮮半島との直接的交流があることを示している。中国及び朝鮮半島との交流を玄界灘ルートを唯一とする考えが主流であるが、交流の視点を、朝鮮半島、中国江南・江北、南島、南九州、西・北九州、壱岐、対馬の各地をむすぶ「環東支那海文化交流圏」としてとらえ直せば、「有明海ルート」も対外交流の一つとして位置付けることが可能である。
吉野ヶ里遺跡は、墳丘墓・環音豪などの遺構、青銅器・鉄器・絹・ガラス管玉などの遺物に見られるように、当時の東アジアといった国際的動きの中で成立った。有明海はその為の生み(海)の役割を果たしたのである。
長崎県の水中考古学 高野 晋司
1946年 長崎県に生れる。
1969年 明治大学文学部史学地理学科(考古学専攻)卒業
1973年 長崎県教育文化課勤務。
原の辻遺跡、里田原遺掛、原山支石墓群、壱岐国分寺等県内主要遺跡を多数調査
1983年以来、鷹島町海底遺跡の調査に従事現在、文化課埋蔵文化財班係長
紀元3世紀頃に相当する、わが国の弥生時代の政治の仕組みや風俗や地理などを生き生きと描写していることで有名な中国の史書『魏志倭人伝』に「…好んで魚やあわびを捕らえるが、水が深くても浅くても、皆沈没して之を取る…」と書いてある箇所がある。潜って魚などをとるのは古来から日本のお家芸であったらしい。食料獲得が目的であるから水中調査とは言い難いが、潜水して活動する行為は同じであろう。
大小588の離島を抱えた長崎県は、古来からとりわけ海との関わりあいが深い。
縄文時代以来、海に面した各地の遺跡からは、鯨や鹿、あるいは猪の骨などで作ったあわび起しや釣り針や錯など、海で使用する道具類が随分出土しており、生活そのものが海との深いかかわりの中で営まれていた事情をよく物語っている。
現在長崎県には、水深が20mを越す本格的な海底遺跡から、潮が引けば遺物が現れる程度の潮間帯遺跡とも言うべき種類のものまで約80か所が知られている。なぜ、遺跡が海の底に沈んでいるのかという理由についてはいろいろな説があって一様ではないが、それはさておき、水底に遺跡があれば潜って調査するしかない。
我々は1980年以来、北松浦郡鷹島において水中遺跡の調査を継続している。鷹島は元寇の島として有名である。モンゴル軍は2度にわたって我が国を襲ったが、1281年の来襲時には、未曾有の大型台風によって鷹島沿岸でほぼ壊滅してしまったという。我々はそれらの史実を発掘という科学的調査で証明しようとしている。
世界から見た日本の水中考古学 林田 憲三
昭和21年 富山市に生まれる
昭和46年 早稲田大学文学部卒業
昭和56年 ペンシルヴァニア大学大学院西洋古典考古学科修士課程終了
昭和57~平成3年まで、中村学園短期大学、西南学院大学非常勤講師
現在、福岡市教育委員会に勤務する。
著書に「アメリカの考古学:古典考古学とニューアーケオロジー」(九州考古学60号)
「後記ヘラデイクⅢC期のミケーネ世界-レフカンデイ遺跡-」(東アジアの考古と歴史)等がある。
地中海はギリシア、エジプト、メソポタミアに栄えた古代文明をはぐくんだ海である。この海の果たした役割は大きい。これらの地域では人々の活発な相互交流の多くの証が地中海周辺地域の陸上の調査ばかりではなく、海底調査でもそれが証明されている。
1960年代から地中海諸国のギリシア、イタリア、トルコ各国の海域で盛んに行われるようになった水中考古学による成果は文物の交流が船を通じて行われていた歴史のあることが明らかになってきた。船を使い古代の地中海で広範囲にわたって交易を行っていたのは東地中海のパレスチナ地方に住んでいたカナン人であった。その人々を引き継いだのがフェニキア人である。彼らは航海術に優れた海洋民族であり、地中海を縦横に航海し、各地域の特産品を積込み、これらを必要とする人々や国へ運んだのである。
玄界灘を地中海と比較するならば、壱岐を地中海におけるクレタ島あるいはキプロス島に例えることができる。更に朝鮮半島や、その背後にある中国大陸と北部九州との地理的な関係は地中海諸国と比較することができる。古代の玄界灘で船を使って九州と大陸との間の交通や交易を行っていたのは宗像族であると考える。彼らは船の航海安全とその祈願を彼らの聖地である沖ノ島で行ったのである。沖ノ島は玄界灘の海上信仰の島であった。ギルパート・マレーは人間の船による海上の移動では人間の精神的な飛躍の存在を述べているように、人々が何故異なった世界の海へ出ていくのか考えなければならない。
玄界灘で海底遺跡や沈没船の調査が行われるならば、人間の歴史が水中からより明確に理解されるようになるであろう。壱岐は朝鮮半島、中国大陸と九州との国際交流の歴史的重要な島であり、その証拠の発見には水中考古学が貢献できる学問である。将来にわたって玄界灘で調査活動をすることの重要な意義をここで改めて認識する必要を感じる。
歴史を運んだ海~海底遺跡と玄界灘~ 石原 渉
昭和29年、長崎県生まれ。
昭和51年東海大学海洋学部海洋工学科・昭和55年明治大学文学部史学科卒業。明治大学文学部助手補を経て、現在、九州沖縄水中考古学協会副会長。日本考古学協会会員。
著書に、日本における水底遺跡研究と水中考古学(駿台史学57号)、滋賀県・葛籠尾崎湖底遺跡(探訪縄文の遺跡・西日本編)有斐閣、など多数。
極東の島国である日本は、四面を海に囲まれ、原始古代から現代にいたるまで、実に様々な文物が海を越えてやってきました。
それは中国大陸や朝鮮半島から、あるいは南洋の島々から、人々は舟をたくみに操って、はるばるやってきたのです。
米作りの技術は、それまで狩猟採集を生業としていた縄文人たちに、衝撃的なカルチャーショックを与え、ひいては玄界灘沿岸を中心に、弥生の村々を、次々と誕生させていきました。
そして日本列島は、これを境に黎明期を迎え、中国の王朝へ、使者や貢物を送ったり、その返礼として、下賜された、いろいろな土産物をもち帰りました。行くも帰るも、舟を使って、海上の道を進んだのです。
やがて、大和の地に統一王権が誕生し、より頻繁に、朝鮮半島や中国大陸と交流を図るようになります。あるときは平和的な外交手段として、またある時は、軍事的な色彩を帯びて、武装した者たちが海を渡っていきました。
さて、時代は移り変わり、鎌倉時代には大陸から蒙古が来襲しました。対馬、壱岐、博多、肥前の島々で、多くの人々が災禍を被りました。
しかし、歴史とは皮肉なものです。被害者はやがて加害者となって、十六世紀末には朝鮮出兵の軍が、またもや玄界灘を渡っていきました。
このように、わが国の歴史や文化は、常に海と深くかかわってきました。しかし、歴史を、海側から見ようとする動きは、あまり活発ではありません。海の底には、文化を運んだ、いろいろな時代の舟が、たくさん沈んでいます。伝承は、沈んだ島々について、熱く語り継がれています。今こそ、私たちは、こうした水底に眠る語部たちの声に、耳を傾ける時なのです。