九州・沖縄水中考古学協会会報
第4巻・第1号 通巻11号
1996年12月31日発行

海底遺跡と文化財保護  高野 晋司

周知の遺跡であれば、陸地・水中を問わず、そこに開発行為があれば法律上事前の発掘調査が義務づけられている。

逆に言えば周知の遺跡でなければ開発行為は野放しということになる。しかし肝心の基礎資料となる水中遺跡が周知の遺跡である例は極めて少ないのが実状である。水中遺跡の調査には確かに費用も期間も余分にかかることは否めないが、プロのダイバーに作業の指示が出来る知識があれば基本的に調査は可能である。

そろそろ水中遺跡を特殊化するのではなく、まず全国の自治体が水中遺跡の把握につとめる努力をすべき時期にきているのではないだろうか。

 

日本の水中考古学(Ⅱ)  石原 渉

◇鷹島海底の調査

昭和55年(1980年)以来、今日まで継続して調査がおこなわれている唯一の水底遺跡は、長崎県北松浦郡鷹島町沖の鷹島海底遺跡である。

この調査は1980年に3ケ年計画で開始された、文部省科学研究費特定研究「古文化財」のうち、水中文化財の科学的研究と保存を目的として「水中考古学による遺跡・遺物の発見と調査・保存の研究」をテーマとした、初の国費支出による本格的調査としてスタートした。調査が水底下に於ける古文化財の発見と考古学的調査法の開発研究に主眼を置いているため、研究スタッフも、歴史学、考古学、郷土史などの人文科学系の研究者のほか、船舶工学、水中音響工学、潜水技術等の工学系研究者の協力を得ておこなわれたのである。

調査実施にあたっては、茂在寅男氏(元東海大学教授)を調査団長に、研究分担者10名、研究協力者14名、潜水協力者6名のほか、現地側協力者など多数の援助をうけ、元寇終焉の地として名高い、長崎県北松浦郡鷹島町周辺海域で実施された。

鷹島は九州の西北端の伊万里湾口に浮かび、東に日比水道を隔てて、東松浦郡肥前町、東南に長崎県福島町、佐賀県伊万里市を望む場所に位置している。

蒙古襲来の弘安4年(1281年)には、同島沖合を埋め尽くした蒙古と高麗軍の軍船4400隻が大暴風雨のため潰滅した地とされ、この調査では、これら蒙古軍の足跡を水中考古学的見地から検証し、併せて研究法自体の確立を目指して実施されたものである。

調査初年度の1980年8月には、同島周辺海域において、音響測深機のソノストレーター及び、サイドスキャンソナーを併用して、海底下の状況を調査し、全調査ポイントのうち、72地点において海底下の異常反響を確認、海底下の地層中に遺物類が埋没している可能性を得て、次年度(56年度)の本格的調査に受け継がれた。
1981年度の調査は、7月6日から20日まで、15日間の日程でおこなわれ、蒙古軍の軍船が沈没したとされる、同島の南西部沿岸を中心に、潜水および機械班の2隊に別れて実施された。潜水班には東海大学潜水技術センターから技術員の参加があり、潜水による遺物の確認と写真撮影、及びその引き揚げ作業が担当とされた。

機械班では、本調査のため、特に光電製作所が開発したカラーソナー(海底下の状況をカラーデイプレーする)を駆使して、反応のあったポイントにブイを投下して、位置確認の作業を分担した。また、同調査においては、海底下の発掘方法研究のため、エアーリフト(空気吸い上げ機)の試作をおこない、海底の砂泥地帯において発掘を実施した。このエアーリフトは、鉄パイプの先に圧縮空気を送り込み、海底で泡がパイプの開口部に向かって上昇する際に起きる吸引力を利用するもので、直径9cm、長さ110cmの亜鉛引鉄管を筒先とし、長さ30mのホースを接続した。なおエアーリフトにはコンプレッサーから、空気を送付して動力としたのである。

潜水班は2人を1組みとし、合計6人をもって同島南西沿岸の床浪から俵石鼻を中心に調査を実施。沿岸から沖合に約50m内外(平均水深10m)の浅瀬、岩礁部を調査して、遺物の確認と写真撮影をおこない、サンプリングとして浅瀬の海底に露出していた褐釉壷などを引き揚げている。

特に同海域には遺物が集中しており、海底には約2m間隔で壷の破片が確認できる状況で、そのほとんどが破損していた。また、潜水班はエアーリフトの実験をおこなうため、7月17日、18日の両日、同島神崎港沖合120mのSt.2(水深20m)と同沖合220mのSt.11(水深25m)のポイントで実施した。これらは以前、ソノストレーターで海底下1.5mに明瞭な反応のあった地点であり、同調査を指揮した工藤盛得(東海大学教授)によれば、海底は極めて軟弱な泥層であり、海底での透視度も2m程度と悪く、エアーリフトによる浚渫も25分間で直径約1m、探さ30cmと効率が悪く、15分間に直径50cm、深さ20cmほどの埋め戻しが起きる状況で、作業は困難をきわめたという。

両日で合計12回の試掘を実施した結果は、St.2で海底下1.2m、St.11で1.8mまで掘り下げることに成功し、St.11では海底下1.6m深の付近で貝殻混りの固い地層に到達、1.8m以深には約30cmの厚さで固い地層が存在し、その下は再び軟弱な地層となることを確認している。

調査で引き揚げられた遺物類は、褐釉壷(唐ツボ)の破片などを含めて、記録用のマーキングをした遺物類は総計174点。それらのうち調査終了時点で明らかに自然遺物と判明したもの、及び、現在の日用品の一部にカキ類が付着していたものなど、3点を除いて171点の遺物類を記録に残した。その内訳は、褐釉壷の破片など143点(完形品3点)。石製の片口など石製品4点(このうち投石弾とおもわれるもの1点を含む)。鉄製品では鉾先ではないかと推定されたもの2点、インゴット1点を含み8点。そのほか磚9点、青磁茶碗2点、青磁小鉢1点、江戸後期~現代にいたるまでの肥前系陶磁器を一括資料として3点、小鉢1点。合計171点である。

◇管軍総把印と蒙古襲来

鷹島海底で採集された褐釉壺

鷹島海底で採集された褐釉壺

調査は、調査海域を限定したことなどもあって、鷹島の南側、すなわち蒙古軍が暴風雨に遭遇したと思われる海域を重点的におこなった結果、潜水班からは、俵石鼻から床浪にかけての沿岸海域、水深10m内外の岩礁及び浅瀬に、褐紬壷の破片が散乱しており、そのほとんどが破損していたという。また、破損した褐釉壷が大半を占めることについては、暴風雨に遭遇した際に破損したというよりも、ごく最近まで島民が行っていた、底引き網によるナマコ漁の際に破損したものも多くあったろうと想定される。

この点については、調査の後半に神崎の東、沿岸より30mの海域で発見された遺物や、同じく床浪の沿岸より50mの海域で発見された褐釉壷は完形品で引き揚げられており、壷の内部からは多量のシルトを検出していることから、これら完形品はある一部分を海底に露出したまま、その大部分が海底に埋まっていたことが推定された。そのため外部からの影響を受けず、無傷のままの状態で、今日まで保存されていたものと考えられる。従って調査の範囲が岩礁部から沖合の海底(シルト層を中心とした軟泥)に移るにつれて、完形品の資料が増えるものと考えられた。褐釉壷の器形については、松岡史氏による鷹島及び伊万里湾における褐釉壷の分布調査や、佐賀県東背振村(霊仙寺跡)出土の蔵骨器)、ひいては現在までに島民の手によって引き揚げられた壷類と同様の器種や、注口部分を有する小口の壷類などの新資料などがこの調査で得られている。ただ、これらの遺物がすべて蒙古軍のものとはいえないまでも、同島を取り巻く海底に、かなりの種類を有する壷類が存在することは証明できたと言えよう。

またインゴットなどの鉄製品、及び碑など検討を残す遺物類も多く、遺物類に限って言えば青銅印≪7年前に地元の漁師が、神崎の沿岸で貝掘りの最中に発見。今回、調査団に鑑定を依頼してきたもので、印面にはパスパ文字で管軍総把印と刻まれていた。≫などを含めて、蒙古襲来を彷彿とさせるにたる資料が得られたと考えられる。

◇鷹島海底の遺跡周知化

先にも述べたとおり、この調査の目的は水中考古学における調査法の研究に主眼を置いたものであり、海底下の遺物類に対する水中発掘、及び実測と記録を実地におこなうはずであったが、準備不足と人員の関係から、これらは満足に機能しなかった。

また、機械班が実施したカラーソナー、ソノストレーターの実験は海底下の遺物発見に有効であることがわかったものの、航行する船舶に搭載した計器類が、遺物確認のエコーをキャッチしても同海底にブイを打ち込む際に、船舶のスピード等の関係から、確認地点がそれ、かなり離れた海底に着底して、大きな誤差を生じており、その誤差をいかに縮めるかが問題であった。またカラーソナー自体も、船底から海底に発射する音波のビーム幅が広いため、精度の点ではかなり改良の余地があったのである。

以上の反省点から考えて、調査には
1. 水中での測量および遺物の正確な位置確認と記録。
2. 機械班と潜水班の共同作業における連絡手段の確立整備。
3. 陸上の測量班を編成して、陸上から調査船ないしは、遺物の存在を示すブイの位置確認作業をおこなう。
4. 保存処理用の施設の充実を図る。
などの改善策が必要との声が調査団の中にあがったのである。また潜水調査をおこなったダイバーの中に、考古学的な方法論を熟知したものがいなかったことも、この調査の致命的で最大の障害となった。しかしこの調査がきっかけとなり、昭和56年(1981年)7月20日付けをもって、鷹島南岸一帯の延長7.5km、汀線より沖合200mの150万㎡が遺跡として周知化され、同地区でのあらゆる沿岸工事に際しても、すべて事前調査の必要性が生じるようになったわけである。

そしてその第1号となったのが、昭和58年(1983年)におこなわれた、同島の床浪海底遺跡の調査であった。

◇鷹島床浪海底遺跡

この調査では沖合の離岸堤の拡張工事のための事前調査で、既設の離岸堤を中心に東側の500㎡、西側に約3,500㎡の調査区を設け、10m×10mのグリッドで調査区を区画し、それぞれをエアーリフトで発掘する方法がとられたが、事前調査のボーリング調査で海底にシルト(軟泥)の堆積が3mほどあることがわかり、まず遺物包含層を覆うシルト層の除去のため、浚渫船のバケットによるシルト層排土を行い、排除されたシルトは台船上の金網に落とし、さらにホースで海水をかけて洗浄し、遺物の混入があった場合に発見できるような処置が取られた。

また覆土の排除ののちは、エアーリフトで発掘を続けたが、濁りが激しく、平均水深が27mもあり、潜水時間にかなりの制約を受けた。そこで1回の潜水時間は最大60分とし、アメリカ海軍の減圧表を参考にして安全管理を行い発掘作業員も2人に調査員1人が加わる3人1組で行動した。特に水中ではエアーリフトによる発掘でドロが舞い上がり、周囲も濁りによって透明度、透視度ともに悪く、写真撮影などは早朝の比較的濁りの少ない時間に、エアーリフトを空ふかしの状態で稼働させ、濁りを排除しながら撮影した。その結果、シルト層の下部にある70cmほどの細粒砂層から完形の壷類や碗などの日用什器類が、またイノシシやマカジキなどの獣骨や魚骨、加工跡のある木製品などが出土した。

◇第二次鷹島床浪海底遺跡の調査

平成元年(1989年)には、同地区の護岸工事による一部海岸の浚渫と埋め立て工事が計画されたため、やはり事前調査として1,400㎡の範囲で水中の発掘調査がおこなわれた。この調査でも覆土のシルト層を排除するため、1.2立法メートルのバケットによる排土をおこない、その下層の遺物包含層をエアーリフトで発掘した。その結果、舶載陶磁器類や石弾、碇石、宋鏡など285点、国内の縄文や弥生式土器、須恵器、中近世の陶磁器な291点、人骨や馬、シカ、イノシシなどの獣骨など、また船材の一部も出土している。

さらに平成4年(1992年)には、文部省科学研究費補助金により「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存科学に関する基礎的研究」が3ヶ年計画でスタートした。その内容であるが、まず水底遺跡の探査という観点から、サイドスキャンソナー(Side Scan Sonar)を使って、鷹島南岸の周知の遺跡範囲を探査するとともに、遺物の残存の可能性が高い、同島南部の浦下浦においてサブボトムプロフアイラー(Sub-bottom Profiler)を併用、さらに磁気探査機などで精査を試みた。また文化庁においても全国の市町村に対し「水中遺跡」についてのアンケート調査を実施し、353箇所の遺跡が確認されたが、このうち調査がおこなわれた遺跡はごくわずかであることは先に述べた通りである。

◇海底の縄文遺跡

さて同じ年、やはり床浪地区で今度は防波堤の建設工事が計画されたため、やはり緊急調査で同港の入口付近の海底を発掘調査することになった。このときもやはり覆土のシルト層をバケットにより排除し、遺物包含層とみられる地点をエアーリフトによって発掘した。調査範囲は2,400㎡、水深はおよそ20mで、そこに4mのシルトが堆積しており、調査は濁りによる極めて不透明な状況下でおこなわれた。しかしこの調査では意外にも、水深25mの海底下から縄文時代早期の山形や楕円といった文様を持つ押型文士器が出土し、同様の層中から検出した貝のC14年代測定法によれば、いずれも8630±105BP、8410±105BPの結果をえており、おおよそ縄文早期の押型文尖底土器の時代と符合することが分かった。

ちなみに大分県早水台遺跡の縄文早期の土器の年代が8200±105BPであるから、ほぼ時代的には間違いなく、石器や土器はおよそ200㎡の範囲に集中しており、摩滅跡がないことから、陸上部からの流れ込みとは考えられず、あえて海進現象による陸上遺跡の水没を考えねばならない。ということは西北九州の沿岸部では、縄文早期の遺跡が水深25m付近にも存在する可能性をしめしたわけで、同遺跡からの縄文早期の土器を発見した意義はおおきかった。

◇木碇の出土

陸揚げされた3号イカリ

陸揚げされた3号イカリ

さて、こうして行われてきた鷹島の調査は、平成5年(1994年)には同島の神崎地区において防波堤の建設工事が計画されたため、同年に海底の発掘調査をおこない、2個の碇石が付属した木製碇が、大小3個体確認された。これらの碇はすべてほぼ同じレベルで確認されており、特に大型の碇は、木製の主要部分が赤樫でつくられ、そのC14年代測定でも770±90BPがでているので、ほぼ元寇時代と年代も符合するようである。したがって蒙古軍船の碇の可能性が極めて高い遺物と言えよう。

鷹島海底で出土した木イカリ

鷹島海底で出土した木イカリ

現在、これらの遺物は現地で脱塩処理(真水にホウ砂・ホウ酸水溶液《3:7の0.02%》)されており、その全容は報告書に詳しい。

さて、このように日本の水底遺跡は、水中考古学の発展に伴ってしだいにその調査例を増しつつあるが、やはり大半の遺跡は今だ未調査のままである。また未発見の水底遺跡も数多く存在することが予想されるが、それを追いかけるように開発の波は確実に沿岸部に及びつつある。その多くは埋め立て工事などだが、事前の確認調査もなされないまま、破壊されていく水底遺跡も多いことであろう。

こういった事情は恐らく日本だけではなく、世界各地で同じような状況が起こっているのではないだろうか。我々、水底遺跡を研究する人間は、共通の認識をもっている。それは水底に沈んだ歴史を、再びこの世界に蘇らせたいという使命感である。したがって我々はその共通の認識に立って、相互交流や共同研究態勢の整備を急がねばならない。それは世界各国の調査情報を交換できる情報ネットの設置という形でもよいのではないだろうか。また環境汚染は確実に海洋や湖沼、河川を侵食しつつある。それは取りも直さず、水中環境の汚濁を伴い、調査環境を劣悪な状況へと追い込んでいるのである。したがって我々研究者は、こういった水中環境の保全にも気を配る必要があるのではないだろうか。正しい歴史を伝えることと同じように、我々は後に続く人々に、豊かな自然と美しい環境を伝えていかなければならないと思う。

本日はこの機会を与えて頂いた、韓国側実行委員会の方々や、最後まで辛抱強く私の話をご静聴いただいた皆様に、深く感謝申し上げ、私の発表を終えたい。
(※本稿は1995年ソウルで開催された国際シンポジュームの席上発表した内容を整理したものである)

参考文献

高野晋司編「鷹島海底遺跡Ⅲ」鷹島町教育委員会 1996

 

鷹島町神崎地区潜水調査:1995年度調査と採取遺物  林田憲三・石原渉

1.はじめに

協会が今回、元寇関係遺物の分布調査を行なった地点は、鷹島南岸の神崎地区にある「南ケ崎」岬から海岸沿いに西へ約400m隔たった地点である。(Fig.1)この地点は「鷹島海底遺跡」として1981年7月に「周知の遺跡」に登録された海域内にある。この「周知の遺跡」は島の最東端の干上鼻から最西端の雷岬までの約7.5km、汀線より沖合200mまでの範囲に含まれる約150万㎡の南岸一体の海域をさす。「鷹島海底遺跡」では、これまでに1980~82年、1989~91年の2度にわたって「水中考古学に関する基礎的研究」と「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」の学術調査が行なわれている。更に長崎県教育庁文化課及び鷹島町教育委員会による緊急発掘調査がこれ迄11回行なわれ、発掘を伴う調査は既に6回行なわれている。その内訳は1.1983年、2.1988年、3.1989年、4.1992年と床浪港改修工事に伴う調査。また、5.1994年、6.1995年には神崎港改修工事に伴う調査などがある。

鷹島海底遺跡と調査地点(1995)

鷹島海底遺跡と調査地点(1995)

学術調査及び緊急発掘調査において、元寇関係遺物と思われるものが数多く出土している。それらには中国陶磁器、鉄刀、船釘、銅碗、石弾、石臼、片口乳鉢、磚、碇石、竹製品、木製品、石製品、鉄製品などがある。その数は少ないが銅鏡や高麗製品もこれまでの調査で出土している。これらの遺物以外には、縄文土器、近世陶器、人骨及び獣魚骨なども出土している。

最近の調査では、1994年の神崎港の緊急発掘調査で2個の碇石が一組になった大型、小型の木製椗がシルト層から検出され、木製椗の基本的な構造が明らかとなった。元寇に関係する船体の部材は未だ検出されていないが、沈没船の存在が想定できるこれらの木椗の出土が神崎地区の海で確認できたことは、この神崎海岸で「管軍総把印」が以前に採集されていることも考慮すれば、その意義は大きいといえる。

協会は1989年の床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査に初めて参加した。1992年の床浪港の緊急発掘調査では全面的に協力を行なった。さらに、1994~95年の2間年にわたる神崎港沖の緊急発掘調査にも協会は協力することが出来た。

協会はその間、鷹島町と潜水調査の委託契約を結び、元寇関係遺物の分布調査を1992年、1993年、1994年と行なっている。今回の調査は協会員の研修を兼ねて、元寇関係遺物の分布状況を神崎地区の海底で調査することになった。調査は協会員と潜水士の総数26名で構成された。

2.調査の目的

鷹島は弘安4年(1281)の元寇の役で戦禍に見舞われ、元軍船がこの島の周辺海域で、暴風が原因でその多くが沈没したといわれている。この歴史的な事件を水中考古学の専門領域で解明するために鷹島海底は貴重な場所を提供している。更に鷹島海底は元寇関係遺物ばかりではなく、縄文早期の遺物を出土させている。

今回の調査は「鷹島海底遺跡」(神崎地区)の遺構及び遺物の散布状況を把握するための目視による潜水調査である。この地区は青銅製の「管軍総把印」が海岸で採集された所であり、大量の中国陶磁器が潮間帯の海岸や海底で採集されている。このような理由から協会は既に、1992年、1993年に潜水調査を実施、1994年には元寇遺物(碇石破片)を海底で確認している。1980~82年迄の3年間にわたって行なわれた学術調査「水中考古学に関する基礎的研究」では、この神崎地区の海底で多くの元寇関係遺物が発見されている。これまで協会が行なった調査地点から最も東側に寄った地点に今回の潜水調査区を設けた。この海域で遺物の分布調査を実施することは、周知化された「鷹島海底遺跡」の規模・範囲や性格などを正確に把握し、今後に精密な海底調査を行なう場合の重要な資料を提供するであろう。また、目視による遺構や遺物の分布調査が今後、この「鷹島海底遺跡」では有効な潜水調査方法なのか、その評価を行なう機会にきている。今回の調査区での潜水調査の結果を踏まえて、できるだけその問題に迫り、回答を与え、この地区で将来、本格的な海底調査を行なうために多くの基礎資料を協会は収集して行くことが必要となるであろう。

3.調査区域

協会が行なった潜水調査区は「周知の遺跡」として登録された島の南岸海域にあり、その所在は神崎地区地先公有水面である。今回の潜水調査区域は1992年から協会が神崎地区地先公有水面で行なった一連の潜水調査地点では最も東側寄の海域にあり、島の南東端に位置する「南ケ崎」の岬より海岸添いに400mほど西側に偏する地点である。(Fig.2)

前年の1994年に潜水調査を行なった地点は、今回の調査地点の西側約300m隔たった海域で、「久保の鼻」の岬の東側の海域の位置にあたる。この海域においては元寇関係遺物の出土事例は少ない。しかし石原渉作成の「鷹島南岸遺物出土図」(『鷹島海底遺跡Ⅱ』鷹島町文化財報告書第1集1993)には、陶磁器の出土が確認されており、更に1989~91年に行なわれた「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」でも、潜水による海底目視調査で「南ケ崎」の海底で陶磁器の存在がビデオ映像に記録されている。以上の事実から、この海域での潜水調査は必要であり、さらに元寇関係遺物の詳しい分布状況の把握が必要であり、本格的な海底調査に備えるデータの収集が望まれる。潜水調査区に決められた今回の地点は「久保の鼻」と「南ケ崎」の両岬に挟まれた、ほぼ真中の海域に位置し、北側の陸地側へ浅い入江を形成している。入江の西側には岩礁が陸上から延びている。更に潮が満ちれば岩の頭が隠れる洗岩や海面に常に隠れている暗岩が数多く点在する。入江の東側では、丘陵が南西方向に傾斜しながら、海側に落ちていき、さらに海底へ延びていく。

調査区域は陸地側に浅く入りくんだ、この入江は調査対象区域から省いた。大潮時には、この入江の区域の殆どの海底が露出する。調査区域の南側は水深が最も深くなる箇所で、最大深度は15mになる。陸側は約4mほどとなる。調査区の海底の透明度は約3mで、決して良好ではない。

陸側の東西両端部(基準点A、B地点)から沖へ向かって、海底には岩礁が張り出し、25mラインでは、北東から40m地点まで岩礁地帯が延びている。100mラインでは70m付近まで岩礁が張り出している。それ以外の海底は砂層及びシルト混じりの砂質層が調査区に広がる底質である。海底に調査区を正確に設定するために陸上に測量可能な良好な条件を持つ場所を鷹島町教育委員会より1/500の地域図の提供を受け、これを参考にして、諸条件を満たす調査区を決定した。

1995年度調査区域図(1/5,000)

1995年度調査区域図(1/5,000)

4.調査の方法

調査区設定

潜水調査地点は神崎地区の東端付近の「南ケ崎」の岬の西側約400mの狭い入江を形成する。その入江の前面の海域である。(Fig.3)両側から陸地が迫り、岩礁が海底に延びている。潜水調査面積は10,000m2である。この面積は2日間の調査期間で、調査区域の全てを精度の高い目視による潜水調査が可能な限界であることがこれまでの調査で判明したからである。この結果を考慮して、今年度も調査対象面積を前年度と同じものにした。潜水調査区域の設定作業は以下の手順で行なった。

調査地点全景(北より)

調査地点全景(北より)

(1)調査区の設定は陸上の定点からトランシットにより方向を定め海上に100×100mの調査区を設定する。先ずは陸地から海に突き出た平坦な岩礁に基準点Bを設定し、更にこの基準点Bから東側に狭い入江を挟むように突き出ている対岸の岩棚の平坦な場所に地点Aを設定する。基準点Bから東へ地点Aを結んだ直線をベースライン(0度)とする。基準点Bと基準点A間の距離は100mである。基準点Bからベースラインより右(90度)を設定し、この地点から沖に向かって100mのロープを延ばし、その地点を基準点C(100,100)とし、海底に基準点Cの杭を設置する。杭を設置した後、橙色のマーカーブイを海面に投入する。この作業は海上班と陸上班が携帯無線器を使い、陸上班からの指示を的確に海底作業を行なっている潜水士に伝えながら進められた。交信を行いながらB地点とC地点の間をできるだけ直線にし、正確に海底に基準点Cの杭を設置する。100mロープには10m毎に距離を印したテープを付けることにし、このロープの0mは沖側に設定した。

(2)基準点Bを設置した岩礁から東側の狭い入江を挟むように突き出ている対岸の岩棚の平坦な場所に基準点Aとしてトランシットを移動させ、ベースラインから左(90度)を設定し、基準点Aより直線に100mロープを延ばして、100m地点の海底に基準D点(100,0)を設定した。この基準点Dにも橙色マーカーブイを投入する。この100mロープには10m毎に印を付ける。

(3)基準点C、D間の直線上に100mロープを海底に設置する。このロープにはD地点よりC地点へ25m毎に100mロープを陸地側に向かって、直線に延ばす。この25m地点(100,25)を海底に設置し、海面には橙色のブイを上げる。

(4)50m地点(100,50)にも同様に陸側に向かって100mロープを延ばし、この地点の海底に杭を設置した後、橙色ブイを海面に投入した。

(5)75m地点(100,75)にも同様にこの杭から陸地へ100mロープ延ばした。

(6)A、B、C、D地点を囲んだ面積10,000㎡の範囲が今回の潜水調査象区域である。各100mロープの海底設置の状況はカメラで記録した。沖側の底質はシルト混じりの砂層のため杭が簡単に抜けないように、杭の設置には充分に注意を払う。

(7)φ250mmのマーカーブイを沖側のC、D地点間に25m毎に海底より5個を海面に上げ、潜水作業区域を示すものとして設置する。マーカーブイは調査終了と同時に回収する。

潜水調査方法
潜水調査風景

潜水調査風景

A、B、C、D地点で囲んだ区域を潜水調査する。調査区域はさらに4グリッドの小区に分け、各グリッドは水深や調査員の潜水経験などを考慮して、目視調査する範囲をA~F区と細分した。A区は基準点D、0mから15m迄の地点で、南北100mにわたって潜水調査を行なう区域で、その調査面積は1,500㎡(15×100m)である。B区は15m~40m迄の地点で、調査面積は2,500㎡(25×100m)である。C区は40m~65m迄の地点で、調査面積は2,5000㎡(25×100m)である。D区は60m~75m迄の地点で、調査面積は1,500㎡(15×100m)である。E区は潜水士に潜水訓練を受けながら、目視調査を行なう区域とし、75m~100mライン間と陸地側の50m~100mの間が潜水調査の範囲である。調査面積は750㎡(25×50m)であるF区は75mラインと100mライン間、沖側の0m~50mの間が潜水調査の範囲である。調査面積は750㎡(25×50m)である。調査員は担当する区を視界が効く範囲で、海底を目視しながら、ゆっくりしたスピードで移動し、潜水調査を行なう。100mロープには10m毎に距離の数字を付け、遺物を発見した場合には、海底で遺物の位置関係を水中ノートに記録する。発見した遺物については、遺物の出土状況を担当した調査員から説明を受け、さらにこれら遺物の出土状況を調べるために複数の調査員を遺物発見の調査員と共に潜水させ、遣物の確認を行なった。(Fig.4)遺物は35mm水中カメラで撮影し、また出土位置を記録した。確認した遺物は海底から引き上げの必要があるものだけを引き上げることにした。

5.調査の成果

四耳壺海底発見状況

四耳壺海底発見状況

神崎地区海底に設定した調査地区を潜水による目視調査で行なった調査面積は10,000㎡である。今回は潜水調査への参加者もこれまでよりはるかに多く、そのために微密で、精度の高い調査ができた。調査区の元寇関係遺物の分布状況は決して密度の高いものでないことが把握できた。しかし潜水調査で確認できたもでは、褐釉陶器の四耳壷などがある。この四耳壷は25mラインの55.5m地点から西へ1.10mの地点の水深4.1mの海底の岩礁地帯で出土した。この遺物は岩の間に挟まれるような状態で発見されている。これら以外では、岩礁地帯で碇石や碑らしき石製品や土製品が見られたが、これらを検討した結果、全てが岩礁の表面が剥離した自然石であった。

潜水調査を行なった調査区は殆どが砂層やシルト混じりの砂質層が堆積した海底であり、元寇関係遣物を数多く確認できなかった。しかし元寇関係遺物は700年の間に相当数がシルト層に埋没しているため、海底面で発見されることは現時点では稀となる。この海域での遺物の発見は大きなしけが幾度とない限り、海底下に埋没した元寇関係遣物が発見されることは困難と思われる。陸地に近い海底では礫あるいは砂混じりの底質であるため、遺物は海底下に埋没せず、発見される機会が多くなっている。そのような海底の状況下で発見されたのが、一昨年と昨年の木製椗と碇石である。これが発見された地点の底質は砂ではなくシルトであり、砂層より下位の層である。この海底に堆積した砂層の下位で発見されている。この海域での海底調査の将来の課題はシルト層に埋没している元寇関係遺物をいかにして確認するかであろう。小規模なエアーリフトを使用して「周知の遺跡」に指定された全海域を小グリッドに細分し、試掘トレンチ調査を今後、鷹島海底遺跡の分布調査に導入していく必要があろう。協会は今後、神崎地区の海底調査には「久保ノ鼻」岬沖を含む限定海域で行なう必要があろう。

協会による神崎地区海底の元寇関係遺物の確認調査は、西側海域から1992年に始まり、1993年、1994年、1995年、1996年の調査と順次、東側へ「南ケ崎」岬付近まで移動しながら約2kmにわたって海岸沿いに行なってきている。この神崎地区では神崎港改修工事に伴う緊急調査が1994~95年にあり、この調査地点の東側海域では第1回の学術調査も行なわれている。

「鷹島海底遺跡」として、周知された海域内に調査地点、および出土した遺物を正確に地図上に記録させ、遺物の分布状況を把握することが協会の調査の目的であり、調査の結果である。この様に、神崎地区における海底調査の成果を評価し、今後に行なわれる総合的な海底調査の基本資料となるために分布調査はこれからも鷹島海域で行なう必要があるであろう。

6.採取遺物

四耳壺実測図

四耳壺実測図

四耳壺

四耳壺

-鷹島海底より採取された遺物についての考察-

13世紀後半から、14世紀前半にかけて広くみられる舶載の四耳付褐釉壷である。採取場所(Fig.5)は調査範囲の岩棚の裂け目に、ほぼ口縁部を上にした状態で発見されており、欠損部分の割れ口も比較的鋭利であり、器形全体に磨滅跡が見られないことから、胴部より以下の欠損は、あまり時間を経ていないように感じられる。器形は口縁部から肩部を残し、胴部から下部にかけて欠損する。口径6.7cm、残高14.7cm。耳は左右にほぼ等間隔をおいて、二個一組で貼り付けにより付加されている。(Figs.6,7)胎土はやや粗い灰色を呈する。また焼成は不良で、胎土内の気泡が膨張したことによる膨らみがみられる。施釉は器形の表面に均等にかけられていたものと思われ、その痕跡は口縁部より観察される。内面への施釉はみられない。これまで鷹島では同様の器種が多数採取されており、器形も大きさが異なる数種があるが、今回採取されたものは、その特徴的な蕈傘状口縁の状況より判断すれば、おそらく中型に位置する器形と思われる。

以上を総合的に考察すると、同遺物はほぼ完形品にちかい状況で、かなり長期間海底に埋没しており、何らかの要因によって海底から巻き上げられ、欠損し、その下部を欠って散逸したものと判断される。あるいは周辺を精査すれば、その散逸部分の回収も可能である。