九州・沖縄水中考古学協会会報
第4巻・第3号 通巻13号
1998年3月31日発行
21世紀の水中考古学 折尾 学
20世紀の考古学は所謂、陸の考古学と言える。日本の陸の考古学は大学主導から行政主導の発掘調査に移行し、経済や開発優先の調査であった。この変化には埋蔵文化財を急速に進む開発から記録保存をするという立場が含まれているが、決して学問的な問題意識の喪失ではなかった。
21世紀の水中考古学ではこの間題意識が大学、行政、民間の枠を越え、継続的な活動を伴って成果をあげる必要がある。その為には調査方法、費用、時間の効率化をはかり陸の考古学へ的確な水中考古学の情報を提供すれば、陸の調査の原則はおのずから水中考古学に適応されるのではないだろうか。
海揚がりの肥前陶磁 野上 建紀
◇はじめに
海底から引揚げられた、あるいは海岸に打ち上げられた肥前陶磁には、当時の流通過程の途上で沈没、廃棄されたものが多く含まれる。こうした資料を生産遺跡と消費遺跡を結ぶ「流通遺跡」の資料としてとらえることにしている。すなわち、こうした資料を考古学的に検証すれば、当時の流通形態の復元を行うことが理論上は可能であると考えている。その一方で流通形態の復元には文献史学の業績に多くの部分を頼らざるをえないのが現状でもある。「流通遺跡」の資料は当時の流通形態を示す直接的な資料でありながら、現状ではその限界を認めざるをえない状況である。しかし、それは今後の可能性における限界を示しているのではない。
おそらく本稿に挙げた資料はほんの一部に過ぎないものであろう。実際には公開されていないだけで、より多くの資料が引揚げられ、打ち上げられていると思う。そして、さらにより多くの資料が海底に眠ったままであることも容易に推測される。資料の絶対的欠如が現状における限界でもある。
さらに考古学的手法によって調査された例が極めて乏しいこともその限界の要因である。陸上の遺跡においては遣物を遺構から切り離して考えることができないし、むしろその関連性そのものが重要である。それは海底における遺跡においても同様であろう。沈没船等における遺構の概念については必ずしも明確ではないが、少なくともその船の性格を理解できなければ、その積荷の性格の正確なところはわからない。
以上の2点が現状における限界の主な要因と思えるが、これは解決できない性質のものではない。今後、海底遺跡に対する認識が深まり、浸透していけば解決できるものである。そして、この限界は、言い換えれば、今後の可能性について大きな期待がもてるがゆえの限界とも言えるのである。
◇海揚がりの肥前陶磁
海底から引揚げられた、あるいは海岸に打ち上げられた肥前陶磁を一覧表にまとめてみた。この中で玄界灘沿岸の採集品については、全ての資料は実見しておらず、石井忠氏の著作を参考にした。以下、主な海揚がりの肥前陶磁について簡単に記していくことにする。また、海揚がりの資料ではないが、港湾遺跡における出土例についても数例触れておく。
【A】玄界灘海域
(鷹島海底遺跡)
長崎県鷹島南岸周辺海域から肥前陶磁が出土している(高野1992)。最も古いもので1600~1630年代頃の砂目積み折縁皿であり、その他に17~19世紀の陶器製品の出土が報告されている。磁器は19世紀の端反蓋付碗、蛇の目凹形高台の皿などが出土している。生活用品が廃棄された可能性もあるが、伊万里湾には多くの船が肥前陶磁を積んで往来していたことから、積荷の一部であった可能性も考えられる。肥前陶磁の積出し港としての伊万里津の形成時期と変遷を考える上で重要である。
(玄海町池尻海底遺跡)
佐賀県玄海町大字池尻地先の海底より総数36点の肥前磁器が発見されている(有光・東中川1996)。いずれも19世紀の蓋付端反碗である。玄界灘を航行する積荷の一部が投棄されたものと推測される。
(玄界鳥海底遺跡)
福岡市玄界島南西海岸の周辺海域で、唐津系陶器が多数出土している(塩屋1988・林田1995)。いわゆる砂目積み溝緑皿と称する灰柚皿が多く、肥前では1600~1630年代に大量に生産された製品である。他に唐津系鉄絵砂目積み大皿、灰粕碗、鉄窄由瓶などが同時期のものと思われる。沈没船に伴う一括遺物と推定される。
(芦屋海岸沖)
新聞報道によると、100点以上の肥前陶磁が引揚げられている。18世紀後半~19世紀前半のものであるという。
(芦屋海岸)
玄界灘沿岸では、大量の肥前陶磁が海岸より採集されている。芦屋海岸採集資料もその一つで、山田克樹氏の御好意で拝見させて頂いた資料の主体は18世紀後半~19世紀の製品であり、雑器が多い。これは他の玄界灘沿岸採集品についても同様の傾向が見られる。玄界灘沿岸には芦屋商人など筑前商人の本拠地があり、これらの資料は筑前商人の盛行と関わりをもつものと思われるが、具体的に筑前商人が扱った陶磁器を特定することはできない。
【B】東シナ海海域
(鹿児島県吹上浜)
東シナ海に面した海岸より1660年代を中心とした肥前陶磁が大量に採集されている(大橋1985)。多くが東南アジアなどの南方向けの製品であり、おそらく長崎港より彼地に向けて出港したジャンク船等が何らかの事情で遭難し、投荷した結果である可能性が高いと思われる。
(茂木港外遺跡)
肥前陶磁が約100点引揚げられている。新聞報道や高野晋司氏や扇浦政義氏の御教示によれば、17世紀後半~18世紀前半頃の肥前陶磁がまとまって出土しており、沈没船の荷である可能性が高いという。染磁器は付瓶が1点あるのみで、他は鋼緑粕碗・皿(内野山窯か)や刷毛目陶器などの唐津系陶器である。伊万里から積出されていない可能性が高く、肥前陶磁の局地的な流通を考える上で重要な遺跡と思われる。
【C】日本海海域
(石川県舳倉島沖)
宮田進一氏や八尾隆夫氏の御教示によれば、石川県船倉島沖の公海上の海底より肥前磁器が4点引揚げられている。1680~1700年代の染付皿であり、いずれも口径21cm前後の上質なもので有田製であろう。日本海を航行中に何らかの海難に遭遇した船の積荷であった可能性が高いと思われる。
(上ノ国漁港遺跡)
16世紀末~近代に至る大量の肥前陶磁が出土している(荒木・石原ほか1987)。その中で最も遡りうる資料は16世紀末~17世紀初の胎土日積み段階の陶器皿であり、1600~1630年代の砂目積み段階の陶器も見られる。比較的早い段階から日本海沿岸を経由する肥前陶磁の販路が形成されていたことを示している。そして、江戸時代を通して連綿と日本海沿岸を経由してもたらされていたこともわかる。また、磁器に関しては17世紀後半頃までは有田周辺の製品が多いが、17世紀末以降は波佐見など肥前の他産地の製品が多くなっている。この傾向は幕末期から瀬戸美濃系の陶磁器が加わって主流となるまで続いている。そして、肥前系から瀬戸美濃系への転換は「沿日本海長距離輸送路(佐々木1994)」の終焉を意味している。
【D】瀬戸内海海域
(山口県下荷内島沖)
3000数点もの焼物が引揚げられたというが、その多くは散逸しており、現在確認されているのは16点のみである。真鍋篤行氏の御教示によれば、その中には蛇の目高台を有する染付青磁(筒江窯製)・蛤唐草文などの染付皿・染付蓋物などが含まれており、いずれも18世紀中頃の肥前磁器である。船の沈没により積載された焼物が一挙に水没した可能性が高いという(真鍋1994)。
(広島県宇治島沖)
幕末の蒸気船「いろは丸」ではないかと推測されている沈船である。この調査の際に19世紀の染付端反碗が発見されている。「いろは丸」が沈没した1867年という年代と矛盾するものではない。
(広島県倉橋島沖)
唐津系陶器をはじめとした近世の陶器などが引揚げられている(新谷1991)。
【E】太平洋海域
(神津島沖海底遺跡)
硯・措鉢・石灯篭・石臼などとともに1820~1860年代の肥前陶磁が6点出土している。大坂ないし西宮の船問屋で荷物を積み込み、江戸入帆を目的とした運賃積船である千石積船が遭難した結果、形成された遺跡と考えられている(小林・山本1993)。
【F】港湾遺跡における出土例
(旧佐賀藩大坂蔵屋敷船入遺構)
佐賀藩の大坂蔵屋敷の船入道構が検出されている。入堀石垣の背後の土壌から18世紀前半~中頃を中心とする肥前陶磁が出土している。これらの年代は佐賀藩の肥前陶磁に対する流通統制である御屋敷売制から御上仕入制までの年代(1739~1749年)とおおよそ一致するものである。これらの陶磁器は流通統制の下で大坂蔵屋敷まで回送されてきた商品である可能性が高い(中村1991)。流通制度が考古資料に反映された実例として重要であろう。
(常磐橋西勢溜り跡)
正式な報告書は1998年度刊行予定であり、ここでは調査概報に記された内容と、調査を行った山口信義氏に御教示を得た内容を一部紹介することにする。現在は埋め立てられ陸地化しているが、江戸時代は「船発所」があった場所であり、当時は海底であった地点より大量の肥前陶磁が出土している。18世紀後半~明治前期までの製品が見られるが、主に19世紀以降の製品が中心となっている。港湾施設における出土状況を知る上で重要な遺跡であると思われる。
◇まとめ
海揚がりの肥前磁器を海域によって分ければ、玄界灘(鷹島海底遺跡・玄海町池尻海底遺跡・玄界島海底遺跡・芦屋海岸沖、芦屋海岸等玄界灘沿岸など)、東シナ海(鹿児島県吹上浜・茂木港外遺跡)、日本海(石川県船倉島沖・上ノ国漁港遺跡)、瀬戸内海(山口県下荷内島沖・広島県宇治島沖・広島県倉橋島沖)、太平洋(神津島沖海底遺跡)というように日本列島と取り巻く各海域に分布している。肥前磁器が全国各地に流通したことを考えれば当然であろう。そして、玄界灘が最も多く、瀬戸内海がそれに続く点についてであるが、両海域を経由して肥前陶磁が盛んに流通した状況は理解できる。東シナ海を経由するものを除けば、大半の肥前陶磁は玄界灘を経由することは疑いないし、生産地である肥前と物資の集積地である大坂、あるいはそれから江戸へ運搬される場合においては瀬戸内海を航行することになるからである。しかし、資料の発見そのものが偶発的な要因によるものが多いことから、必ずしも資料件数ないし点数がその海域における肥前陶磁の流通量を反映しているわけではない。瀬戸内海のような内海と太平洋のような外海では発見される度合も異なることも考えられる。また、筆者が主に九州の北西部を調査研究フィールドとしてきたことから、情報の収集能力に地域差があることも当然考慮しなければならないであろう。
次に船籍については、吹上浜採集資料が中国等のジャンク船の積荷であると推定されることを除けば、全て国内の船であろう。そして、船の性格については、船体そのものの確認が行われている例が少なく、明らかではないものが多い。少なくとも肥前陶磁の流通に関わった船体の確認例は皆無である。陸上の遺跡に置き換えれば、遺構と遺物の相対的関係が明確なものが少ないのである。また、比較的共伴遺物がまとまって出土していれば、神津島沖海底遺跡出土資料のようにある程度船の性格を推測することも可能であるが、多くの場合は陶磁器のみの引揚げ、あるいは採集であったりするため、陶磁器だけ運んでいたのか、陶磁器と他の物資をどういった組み合わせで運んでいたのか、そうした疑問についても答えることができない。
最後に年代については、18世紀後半~19世紀にかけての製品が大半を占める例が多い玄界灘沿岸を除けば、今のところ年代による大きな片寄りは見られない。今後の資料の増加に伴い、ある程度は生産地における生産量の増大に比例すると予耕されるが、流通形態の種類と変化がどのような寛響を与えるか考えていかなければならないであろう
今回の情報収集の際には多くの方のお世話になった。各資料に関する御教示については本文中に記したが、特に大橋康二氏には多くの情報を御教示頂いた。そして、瀬戸内海海域についての情報は灯海域で精力的な調査活動をされている真銅篤行氏より寄せて頂いた。
◇参考文献(著者五十音順)
荒木伸介・石原渉ほか1987『上ノ国漁港遺跡』 上ノ国町教育委員会・函館土木現業所
有光宏之・東中川忠実1996『池尻海底遺跡』 玄海町教育委員会
石井忠1992『海辺の民俗学』新潮選書
大橋康二1985「鹿児島県吹上浜採集の陶磁片」『三上次男博士喜寿記念論文集』平凡社
小林達雄・山本典幸1993『神津島村神津島沖海底遺跡』 東京都教育委員会
佐々木達1994「海の道」『日本海域【水の科学と文化』 金沢大学大学教育開放センター
塩屋勝利1988「玄界島の海底陶器」『福岡市歴史資料館研究報告第12集』 福岡市歴史資料館
新谷武夫1991「倉橋の埋蔵文化財」 『倉橋町史・資料編ⅠⅠ』 倉橋町
高野晋司1992『鷹島海底遺跡』 鷹島町教育委員会
中村博司1991『旧佐賀藩大坂蔵屋敷船入遺構調査報告』 財団法人・大坂市文化財協会
林田憲三1995「志賀島・玄界島の海底調査」 『志賀島・玄界島』 福岡市教育委員会
真鍋篤行1994「瀬戸内海における沈船遺跡について」 『貝塚』48 物質文化研究会
峯崎幸清ほか1993『幕末期の志田焼』 塩田町歴史民俗資料館
鷹島町神崎地区潜水調査:1996年度調査と採取遺物 石原 渉
1.調査に至る経緯
九州沖縄水中考古学協会は、1989年の鷹島町床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査より、鷹島海底遺跡の調査に協力する機会を得てきた。以来、1992年~1995年まで4回にわたって鷹島町との間で海底の潜水調査委託契約を締結し、主に神崎地区海底において元寇関連遺物の散布状況を調査してきた。本調査はその第5回目として1996年6月28日~30日までに実施された潜水調査の概要と成果を報告するものである。
2.調査の目的
調査地は北部九州の伊万里湾に浮かぶ長崎県北松浦郡鷹島町で、同島は1981年7月に「鷹島海底遺跡」として周知され、その範囲は鷹島南岸全域に及ぶ東側干上鼻より西側雷岬までの総延長7.5km、汀線より沖合200mに至る150万㎡がこれに相当する。①
同島は弘安4年(1281)の元寇の役において、大暴風雨により元の軍船4400隻が壊滅した地とされ、1980年~1982年に実施された文部省科学研究費「古文化財」の「水中考古学に関する基礎的研究」の実験場所として海底調査が実施され、多くの元寇関連遺物の発見によってこの歴史が検証されて、その意義が高く評価されたことにより遺跡の周知が実現したものである。
また同島神崎地区は1994年の神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査において、海底堆積物のシルト層に埋没していた元軍の軍船が使用したとみられる、木製の碇身や左右対象の装着型碇石が発見されるなど、特に注目すべき場所であり、同港付近の海浜部からは「管軍総把印」が刻字された青銅印も発見されている地域である。
1996年度の調査は「南ヶ崎」の岬から海岸沿いに西へ170m隔たった地点である(Fig.1)この地点は「鷹島海底遺跡」として1981年7月に周知の遺跡として定められた海域内に存在し、同地区の海岸線には今日でも大量の舶載陶磁器が打ち寄せられる場所で、これまで行われた分布調査の折りにも、碇石や四耳壷などが発見されており、今回の調査はこの一連の調査を引き継ぐ形で、最も東側によった地区を潜水調査区として設定したものである。
3.調査区域
調査区域は、長崎県北松浦郡鷹島町の南岸で、所在は鷹島町神崎地区公有水面となっており、潜水調査としては1992年から協会が実施している神崎地区公有水面では最も東寄りの海域にあたり、島の南東端に位置する「南ヶ崎」の岬より海岸沿いに170mほど西側に位置する場所である。また現地の状況は、先述した「南ヶ崎」の最南端に近く、満潮時点でも比較的汀線が確保でき、沖合には岩礁部分が延びて、洗岩や暗礁岩が数多く点在している。海底は沖合に向かってゆるやかな傾斜を持ちつつ深度を増し、海底面は軟弱なシルトに覆われている。最大深度は約15m、陸側は2m程度で汀線の岩礁へと続く。
なお、海底の調査区分を正確に設定するため、今回も陸上に測量可能な条件を持つ場所を決定し、鷹島町教育委員会より1/500地図の提供を受け、部分地域図を参考にして、諸条件を満たす調査区域を決定した。(Fig.2)
4.調査区域の設定方法
潜水調査対象地点の調査区設定にあたっては、長崎県北松浦郡鷹島町神崎地区の東端「南ヶ崎」の岬より西側へ170mの地点の汀線を東端とし、更に西側へ100mの地点の汀線を西端とする南北100m、東西100mの範囲に広がる海底に設定し、その調査対象面積は10,000㎡となり、潜水調査の基準となる法線の設営にあたっては以下の手順で実施した。
1. 調査区の設定は陸上の定点からトランシットにより方向を定め、海上に向かって100m×100mの調査区を設定する。手順は、まず海岸部の汀線部分の比較的平坦な場所に基準点Aを設定し、更にこの基準点から100m西側の地点へ直線を引き、その地点を基準点Bとしてベースライン(0度)としAB間にはロープを敷設した。(PL.1)次に基準点Aより海上に向かってベースラインの左に900を設定し、この地点から沖合100mの地点を基準点D(100,100)とし、海底に基準点Dとして杭を設置し、浮標マーカーブイを取り付け海面の指標とした。この作業には携帯無線機を使用し、陸上班からの指示誘導により進められた。(Pl.2)また陸上のA点と海底のD点の間は出来るだけ直線となるよう正確に海底に設置され、100mのロープには10m毎に距離を示したテープをつけ、ロープの0mは基準点Dとした。
2. 基準点Aを設定した地点から汀線に沿って移動し、基準点Bを定め、ベースラインから左90Dを設定し、基準点Bより直線に100mロープを延ばし、海底に基準点Cを設定(100.0)して海底に杭を設置し、これにも浮標マーカーブイを取り付け海面の指標とした。海底にひかれたロープBCにも10m毎に距離を示すテープを取り付けた。(PL.3)
3. 基準点CD間の直線に100mロープを設定し、このロープにはD点からC点に向かって25m毎に補助基準点を設けながら、直線に100mロープを延ばし、陸上部分のAB間でも同様に25m毎に補助基準点を設定し、それぞれを100mのロープで結んで陸側補助基準点と海底側補助基準点とが連結され、潜水調査時の法線とされた。なお海底に敷設されたCD問の補助基準点には浮標マーカーブイをそれぞれに結び、合計5個の浮標が海面指標として上げられた。
4. なおAB間とCD間には、沖側より陸側に法線A、法線B、法線C、法線D、法線Eが設定され、潜水調査時の基準として、また遺物発見時の測量基準とすることができた。
5. これらの浮標マーカーブイは調査終了後に回収され、調査海域より撤去した。また海底のロープと陸上部のロープも同様に調査終了後に撤去した。
6. この海底の調査区域およびグリッドの設置、さらに潜水調査には「日乃出丸」を使用した。
5.潜水調査の方法
法線Aから法線Eは、協会会員と潜水士の5組10人で潜水調査を実施した。今回の調査時は天候が悪く、波高も安全基準1.5mぎりぎりであり、風も風速12m近くあって、時折小雨が降る気象条件であったため、潜水調査には経験未熟な者は危険と判断し除外した。なお、水中の状況は透明度も不良で、ようやく5m前後であり、海面近くは浪の影響を強くうける状況であった。さらに海底は軟弱なシルト層が厚く堆積して海底を覆っており、遺物の目視確認は極めて難しい状況であった。調査は2人1組のチームが沖合に設置された、各基準点・補助基準点を示す浮標マーカーブイより潜水を開始し、海底面に敷設された法線を目印として陸上の基準点を目指してゆっくり泳ぎながら、法線の左右をも蛇行しつつ目視確認を行う探査方(ベースライン法)を実施した。また海底で遺物を発見した場合は、海底から陸に向かって法線100mのラインに10m毎に犀巨離を示す指標がついているので、その指標を基準として位置を測定するよう調査担当者に指示した。なお遺物発見にあたっては、位置の測定、写真撮影をした後、目印の浮標を取り付けておき、一旦浮上して調査責任者の指示を仰ぐように意志統一をはかり、むやみに遺物引き揚げを行わないよう指示した。
6.調査作業の安全対策
● 調査中の安全対策として調査対象海域には調査警戒船を常時待機させ、調査海域に接近する他船舶に充分なる注意警戒をおこなった。
● 警戒船はその船上に、国際信号旗A旗と形象物を掲げ、警戒要員を配置した。
● 海上の気象情報は天気図等の最新情報で事前に確認した。
● 緊急事故発生時の緊急連絡網をつくり、関係機関に事前に通達した。なお調査については唐津海上保安本部へ許可申請し、受理された。
7.調査作業の安全基準
● 風速12m/秒以上の時、波高1.5m以上の時、視程2,000m以下の時は調査を中止する。
● 大時化の時には、警戒船は鷹島町殿浦港を避難港として回避し、時化が治まるまで待機する。
8.調査の成果
鷹島町南岸の神崎地区公水面に設定した調査グリッドを、潜水による目視調査で確認した範囲は10,000㎡である。今回の調査は例年の調査同様、多くの協会会員の参加があり、組織的な調査を行えたが、天候悪化のため潜水調査は潜水熟練者のみでおこなわざるを得なかった。さて、調査区域の元寇関係遣物の散布状況は決して密度の高いものではなかったが、潜水調査時に人工的な加工跡らしきものを示す石製品を確認する事ができた。これについては別項にゆずるが、発見場所はBラインの76.5mで法線より西に2.9mの地点で、水深1.9m。岩礁の間に狭まるような格好で確認された。(PL.4)この石製品を海底で確認した会員からは「磚ではないか」との報告があったが、35mm水中カメラで撮影し、遺物として詳細に検討を擁するとの判断から引き揚げたところ、石製品であることが判明した。
なお、海底は厚いシルト層に覆われ、ほかに遺物らしきものは確認できなかったが、当該地区の汀線部分では予備調査時(平成8年6月1日)に、干潮時に大量の舶載陶磁器の破片が打ち寄せられているのが確認されており、当然のことながら海底下にも埋没している可能性が高いと判断された。しかし埋没した遺物の確認には発掘調査を伴わなければ無理であり、目視調査の限界を痛切に感じた。また汀線部分の岩礁地区にもAライン上で碇石らしき大型の石製品を見たという報告もあったが、天候悪化のため再視認にまで至らなかったのは残念であった。今後の組織的な調査と、小規模でも海底面の発掘調査が可能となれば、さらに飛躍的な成果が期待出来ると思われる。
9.採取遺物
鷹島海底より採取された遺物は石製品である。用途、年代は不明。最大長27cm、最大幅11.2cm、ほぼ長方形を示す。表面には鑿跡らしき削跡が右斜めより多数つけられている。裏面も同様でやはり鑿による削跡らしきものが数条つけられている。表裏とも角は面取りされ滑らかである。断面はやはり横広の長方形であり、幅、高さともほぼ均一といってよい。次に側面であるが、やはり多数の鑿の削跡がつけられており、やや中央に凹面のえぐりが見られる。また先端部は高さ5cmと先細りの傾向にあるが、これが人為的なものかどうかは分らない。(Fig.4)さてこの遺物は確かに人為的な造作であるように思われるが、その用途や製作目的などについては不明な点が多い。墓跡については母岩より剥離する際のものとも考えられるし、あるいは整形のための墓跡とも考えられる。側面の鑿跡は明らかに凹面を作るための細やかな調整跡ともとれる。この遺物は汀線部分に近い岩礁部の岩棚に紛れて発見されたが、その周囲にはこの遺物に関連するようなものは確認されなかった。(PL.5~Pl.6)発見者は当初、これが磚だと報告してきたが、海底から引き揚げてみると石製品であることがすぐに確認できた。これまで鷹島海底から採取された石製品はかなり特徴的なものが多い。代表的なものとしては碇石や石臼、石製片口、石弾などがあるが、今回採取されたような石製品は初めてである。しいて類似するものを上げれば、1994年に同じ神崎地区の海底から出土した木製の碇身と共に発見された、左右一対に分割された装着式の碇石だが、それにしてはやや小さすぎ、実用的とは言いがたい。そこで以下に碇石と碇身(木材部分)の法量を示し、木碇としての構造を考察してみたい。鷹島町神崎地区の公有水面から出土した木碇は8本出土しているものの、完形にちかいもの、もしくは復元可能なものはそのうち1号碇~4号碇(Fig.5)である。これらから木碇の構造の上で碇歯と碇石との関係を知るため下記の表を用意した。また碇の各部名称は(注1 Fig.3)の記載に従う。
これによれば、碇歯の長さと碇石の大きさには、一定の法則が読み取れる。すなわち2号碇と4号碇のようにほぼ同一規格のものでは、碇歯の長さ/碇石の長さという式では比率が約3.3、3号碇の場合はその比率が2.4、また1号碇では1.8という比率となっている。すなわち木碇の最も重要な部分は碇歯であり、この部分が海底に着実に噛み込んでこそ船の係留の役割を果たすわけで、そのためには碇歯の先端が着実に海底に刺さるように、碇石とそれを包む碇櫓の組み合わさった、いわゆるストック部分の重要性が指摘出来る。2本の碇櫓も碇先端より上端が1.6~1.8m以内、下端が2~2.1m以内程度におさまっている。さて碇歯と碇石との関係は1号碇~4号碇の比率平均値で2.67である。そこで今回、検出された石製品を仮に碇石だと仮定すると、その碇歯の長さは27cm×2.67=72.09cmとなり、かなり小さな木碇となってしまう。またこうした左右対称の碇石の特色として、先端に向かって幅がやや先細る傾向が見られるが、この石製品に関しては、ほぼ同じ幅である。以上のような観点から考察すると、やはり碇石と判断するにはいささか疑問が残るようである。しかし元寇来襲時の南宋や元代の中国船は主碇1門(長さ6.6m)の他に、副碇1門(長さ4.5m)、三碇2門(長さ3.6m)を最低装備していたようであるから、あるいはそれより小さな碇を装備していてもおかしくはない。2. したがって今後の調査によっては、今回の石製品が碇石として構造上なんの問題もない木碇が出現する可能性も否定出来ない。
碇 | 碇歯長 | 碇石の長 | 碇歯/碇石 | 備 考 |
---|---|---|---|---|
1号碇 | 125 | 70.5 | 1.77 | 碇歯一部欠損 |
2号碇 | 170 | 52.5 | 3.24 | 碇歯完形 |
3号碇 | 315 | 132.0 | 2.39 | 碇歯完形 |
4号碇 | 171 | 52.0 | 3.29 | 碇歯完形 |
参考文献
1.『鷹島海底遺跡Ⅱ』1993 長崎県鷹島町教育委員会
2.「池田哲士「最近発掘された宋代の外洋船」『海事史研究』28号 1977-4月