はじめに
日本における水中考古学の研究は、探査や発掘調査の事例が非常に少ないため、考古学全体からみても遅れているといわざるをえないであろう。また、社会的にみてもこの分野に対する関心はまだ低い。そのため若い研究者がこの分野で育っていく環境が整備されておらず、その事がますます、水中考古学の国内での学問的関心や進歩を妨げているといえる。
一方、海外に目を向けると、中国や韓国などの東アジア地域やフィリピン・タイを含む東南アジア諸国では水中考古学による沈没船の発見および学術調査が盛んに行われるようになり、アジア圏の様々な経済活動、文化交流、造船技術など他国間との交流の深さが、沈没船の調査を通して明らかにされている。その結果、サルベージ的な沈没船の発掘調査も一部の国では依然として存在するものの、水中考古学の役割とその成果も高く評価されてきている。しかし、日本ではいまだこれらの交流関係を明白に示す海底からの資料に欠けている。このよう別犬況の中で、当研究は専門的な学問としての水中考古学により、海底遺跡の探査、発見、それに続く考古学的調査とその過程を確実に把握することにある。当研究期間内にそれらを可能な限り実践しようとするならば、当研究は日本における水中考古学の先例となることが期待される。
このため当研究が、その研究対象として選んだ地域は玄界灘海域である。この海域は中国大陸と北部九州の間に横たわり、志賀島や沖ノ島など古代から中世にかけて重要な役割を果たした島々がありながら、水中考古学の研究ではいまだ関心が持たれていない地域となっていた。そこで、この海域は人間の諸活動の痕跡を水中考古学の方法によって、海底で明らかにしようと試みるのにふさわしいフィールドと考えた。今回、このフィールドが特に注目されたのは、木造の沈没船を目撃したとの情報が一人の市民からもたらされたからである。その情報とは昭和30年代前半に、この海域で鋼鉄船をスクラップして鉄素材としてサルベージする回収作業を行っていた潜水夫が、砂地の海底で沈没船を目撃したというものであった。その証言によると、木造船とその積荷の陶磁器の水甕、硯、碇石など、国あるいは地域や時代をある程度想定できる遺物などがあり、当研究の課題である海底遺跡の探査として玄界灘の海底に埋没している木造船を探して、沈没船の遺構を確認することが必要となった。そのため、探査機器を使って沈没船の探査を行い、可能性のある目標物には水中テレビロボットで確認調査を実施することにした。
当研究を通じて、玄界灘の海底遺跡の状況を把握するとともに、水中考古学の調査・研究方法の確立をめざし、また、中国や韓国における水中考古学の研究成果を分析、整理し、東アジアの古代・中世史の中で、玄界灘海域における海底遺跡の意義を考えてみたい。そして、東アジア船舶工学史の立場からも玄界灘海域における海底遺跡に対する評価を与える。その成果は国の内外の水中考古学研究者への刺激となり、この調査から得られる学問的恩恵は広く、多くの学問分野に及ぶことと思う。
当研究は、文部省科学研究費補助金による1998年から2000年までの3カ年にわたる研究であり,最初の2年は沈没船の探査、確認作業に当て、最後の1年はその探査・確認調査の結果を報告書としてまとめることとなった。玄界灘の沈没船の探査は、当研究が行われる以前から九州・沖縄水中考古学協会によって行われており、この報告書においても1994年、1996年、1997年のそれぞれの年度に行った探査の成果を、第Ⅲ章の1,2および3に載せることにした。また、探査のきっかけとなった目撃証言、彦山丸から引き揚げた遺物、さらに海底で目撃した遣物の関係資料を付編として本報告書の最後に収録することにした。
(西谷正・林田憲三)