平成3年度以降の調査 - 高野晋司

鷹島海底遺跡においては、今回の調査研究の後もいくつかの調査が実施されている。まず、平成4年と平成6・7年には、港湾改修事業にともない鷹島町教育委員会が緊急発掘調査を実施している。このうち平成4年の調査は床波港に関わる改修事業であり、平成6・7年の調査は、鷹島南岸でも東方の神崎港の改修事業にともなうものである。また、鷹島町教育委員会では、緊急調査とは別に、鷹島海底遺跡の分布調査を継続して実施している。ここでは、平成4年度以降のこうした調査について概要を紹介する。

(1)平成4年度の調査

床波港の防波堤工事にともない、海底に堆積した厚さ4mのシルト層を浚渫したのち、平成4年7月20日~9月5日まで発掘調査を行った。

この調査においては、縄文時代早期の土器などが海底下約5mのシルト層から集中的に出土し、標高-25mの深さに縄文時代早期の遺跡が存在することが判明した。押型文士器を中心とする土器類が283点、石器片76点、獣魚骨類120点、貝類などが出土している。縄文土器は、山形文・楕円文・格子目文などの押型文士器を中心とし、これに若干の無文士器や撚糸文士器が加わるが、いずれも磨滅していない。動物骨としては、イノシシ・シカ・イヌのほか、人為的な解体の痕跡を残すイルカなどが良好な保存状態で検出された。なお、このシルト層から採取した2種類の貝殻についてC14による年代測定を行った結果、8630±105B.P.,8410±105B.P.という数値が示されている。

本遺跡が水没した原因としては、①地滑りなど斜面崩壊による遺物包含層の滑落、②地殻変動、③氷河性海面変動などが考えられるが、当該地海底の音波探査の記録などから、本遺跡周辺には活断層や活褶曲などの活構造はなく、むしろ地殻変動は静的と考えられることから、専門家は①や②が原因とは考えられないと報告している。したがって、③の理由、すなわち後氷期の氷河の融解による海面上昇つまり縄文海進が原因と考えられる。

年代と水深の関係については、床浪港の東北東1.7kmに位置する浦下沖の海底ボーリングコアの解析の結果、-35mの砂層中のマガキから10,570±350B.P.という数値がえられている。これは、鷹島海底遺跡の所在する伊万里湾における完新世の海面変化曲線に一致している。

以上の事実は、考古学のみならず、地形学や地質学・第四紀学などに完新世の海面変化や古環境に関する貴重な資料を提供するものとして評価が高い。

(2)平成6・7年度の調査

碇の検出状況

鷹島神崎港の防波堤工事にともない、平成6年11月3日~12月12日と平成7年7月17日~9月7日にかけて潜水による発掘調査が実施された。平成6年度の調査において、はじめて海底に埋没した状態で碇が発見された。

平成6年度の調査は、防波堤建設工事が予定された6,000㎡を対象とするものであったが、当然ながら海底下の遺物の包蔵状況は不明であったため、まず事前の地層探査を行った。地層探査器を搭載した探査船により、対象海域を5m間隔で縦横に探査した結果、4箇所において異常反応が認められた。その地点は、陸上に設置した2基の光波測距機と地層探査機によって正確な位置と深度が確認された。それによると、異常反応のあった地点は水深約-22mで、海底面から1~2m下部の位置にあたることが判明した。

次に、この異常反応の内容を確認するため、浚渫船に装備された大形グラブによって、注意深く海底表面のシルトを1mほど除去することとした。慎重に浚渫を行った結果、異常反応があった4箇所のうち近接する2箇所において碇石と木片が発見された。この段階で、グラブによる浚渫から、エアーリフト使用による本調査に切り替えることとした。

本調査にあたっては、遺物が出土した地点を中心として、海底に10m×10mを1単位とする地区設定を行い、順次エアーリフトによる潜水調査を開始した。出土した遺物については、調査員による実測・写真・ビデオ撮影などの記録作業ののち引き上げた。遺物が出土した地点は、およそ水深-20m~22mの間であった。

碇実測図と碇復元模式図

1号~4号碇は、先端の部材がほぼ残存する良好な遺存状況のもので、列をなして検出された。全て同一方向に打ち込まれたものであり、また層位から見ても同一時に投錨されたものと考えられる。いずれもアカガシ製である。このうち3号碇がもっとも大きく、現存長2.6m、幅3.12mで、復元的に考えると堆定8~9mの長さになると思われる。先端部の残りが良いのは、海底の砂層に突き刺さっていたためで、基部側は腐食や虫害によって失われている。

これらに装着されていたものを含め、碇石は合計17点出土している。花崗岩・石英班岩・疑灰質砂岩・石灰岩などの石材があり、長さ1.3m・0.7m・0.5mの3種の規格が見られる。1号~4号碇によれば、木製碇の軸部先端にⅤ字に歯が取り付けられているが、碇石は歯と直行するように2個が装着される形態であった。

今回の調査以前に、鷹島海底から16個の碇石が発見されていたが、それらの特徴としては、①よく整形された扁平な箱形なものが多い、②完形品はなく中央部から折れた状況で片方のみの出土である、③大形のものは少なく長さ80cm程度のものが多い、といった点が一般的に認識されていた。こうした特徴のうち、とくに半載品が多いという認識は、博多湾をはじめ西北九州の沿岸地域などから発見される碇石が、蒙古碇石とよばれる角柱状の大形の碇石であり、こうした形状が本来の姿であると考えていたからであった。しかし、今回の調査において、碇石が実際に木製碇と装着された状態で発見されたことにより、ひとつの碇に1個の碇石が装着されるという認識が誤りであり、鷹島海底出土の碇石の場合は、2個の碇石が対となって左右に装着されることが判明したのである。

碇の材であるアカガシ亜属は、中国南部、韓国南部、九州~沖縄あたりの亜熱帯か暖帯に広く分布するもので、産地を推定することは困難であるが、花崗岩については、化学分析とK-Ar法による放射年代測定の結果、中国南部産である可能性が高いとされている。

以上のように、今回の碇の埋没状態は、かつてこの海域で大海難事故が起こった事実を示すもので、弘安4年(1281)の元寇の事実を改めて想起させる発見となった。また、今回木製碇と碇石が組み合わさって出土したが、同様な事例はこれまで東アジアの中でも報告されておらず、その構造が判明したことは、当時の船の碇の研究上極めて重要なものとして特筆される。

なお、木製碇をはじめとする木製遺物の保存処理については、平成8年・9年度に国庫補助により建設された鷹島町の埋蔵文化財センターで現在脱塩処理中である。

(3)鷹島海底遺跡の分布調査

鷹島町では町の単独事業として、鷹島海底遺跡の分布調査を平成4年度から実施している。鷹島海底遺跡として周知されている範囲は、鷹島南岸の汀線から沖合200mの幅で、南岸の総延長7.5kmにわたる。その範囲のなかで、どの地域にどのような遺物が包蔵されているのかを把握するために潜水により実施しているものである。実際の潜水作業については、九州・沖縄水中考古学協会に依嘱している。

海底分布調査は、毎年、対象となる水域に100m×50mの大地区をロープを張って設定し、そのなかについて目視による潜水調査を行うもので、遺物が見つかった場合は、位置を記録し一部をサンプルとして引き揚げている。

調査区の設定にあたっては、まず大縮尺の図上に調査区域を設定し、その上で陸上の定点(護岸の上)に設置した2台のトランシットで計測しながら、大地区の四隅の部分を決定する。ただし、実際のロープ張り作業は、陸上からの指示によって小船を移動させながら行うため、潮の止まった時間帯や風向きを十分計算しながら行っているが、多少の誤差が生じざるをえない。

一方、こうした目視のみによる潜水分布調査では、岩場に露呈している遺物は別として、基本的に砂やシルトの下に埋没している遺物を発見するのは困難である場合が多く、詳細調査のためにはこれに替わる方法が必要である。ただし、海底遺跡の場合、掘るという行為を行うには、厚く堆積しているシルトなどを除去するためのエアーリフトと呼ばれる特殊な装置が必要になるなど、小規模な確認調査を実施するだけでも、かなり大がかりにならざるをえない。また、地層探査機器による海底下の探査は、現況では機器の精度に疑問があるとともに、費用もかなり高くつくという難点がある。これらの諸問題を解決するためには、今後、高度の潜水技術をもった調査員を確保するとともに、試掘程度の小規模な調査を簡易に実施するための方法の確立が不可欠であると痛感している。