はじめに
小値賀町教育委員会は小値賀島の埋蔵文化財に対して、その包蔵地が陸上のみならず、小値賀島周辺の海底にも存在することを以前より把握していた。海底の文化財に対する関心と理解、それを裏付ける真摯な活動は今回の山見神海底遺跡の確認調査となって実を結んだ。
五島列島は古代より中国大陸あるいは朝鮮半島に近いため、対外交流の手段として早くから船を用いて活発な海上活動が行われてきた。小値賀島は歴史的、地理的環境を有効的に活用して重要な海上交流起点となりえた。そのような活動の一端を示す考古遺物に小値賀島島内で出土する中国陶磁器や周辺海底で引き揚げられた碇石などがある。小値賀島が東アジアの中で積極的な対外交流に関わるのは、8世紀頃から遣唐使船が五島列島を経由して中国大陸へと向かうようになってからであろう。五島列島から方位と緯度線上を大きくそれないように、西へ直線的に航海すれば中国大陸に到着するという地理的な小値賀島の位置と、当時の航海術に支えられていたとおもわれる。船体構造や気候条件を除外して、より安全性の高い航海を望むとすれば、航海する時間を短縮しなければならない。目的地への最短距離・短時間となる航路が最も理想となる航路となると、五島列島の最南端から渡航するか、あるいは九州沿岸を時間をかけて下り、さらに島伝い奄美、琉球列島へ南下して、そこを経由して、いっきに目的地の中国大陸に到達する最短距離を短期間に航行できる航路が採られるようになる。
近世になると、船による海上活動が地球規模で活発になり、ポルトガルによる西回り航路の開拓や、その後に大きく東アジアの貿易に関わるオランダ東インド会社、更にイギリス、フランスも同様に中国との貿易を行う。東シナ海で西欧諸国の辿った航路は、中国のジャンクが古代より海に張り巡らした、それぞれの地域と緊密な交流関係を築き上げた航路に載ったのである。そのなかには中世に開拓された航路もあり、遣唐便船が採った航路を逆に東進して、北上し九州本土に至っている。西欧の大航海時代の経済的海上活動と中国の歴史的経済活動の中で地理的に繰り込まれたのが五島列島の小値賀島であろう。近世に平戸や長崎へ到る九州近海の航路で中国と西欧の船では異なった航路を採っているのも、東アジアで歴史的に発達してきた海上活動に根ざしているものと思われる。
今回の調査が行われた山見沖海底遺跡では遺物の産地、種類、時期、さらに分布状況を確認することができた。しかし船体や船に所属していたと思えるものは見つかっていない。遺跡としてその性格を決めるには、まだ多くの資料に欠けていると言える。沈没したと思われる船体や船籍などもこれから解明すべき重要な課題となるであろう。またこの確認調査と平行して、唐見崎の半島の北側に位置する鵜の鳥瀬で潜水調査を行った。地元の漁師による「底引き漁の最中に碇石を網にかけ、引き揚げる途中で網が破れ、海中に落した」という情報が得られ、この碇石を確認するため調査を行ったが、発見するに到らなかった。
小値賀島の海底で大航海時代の東アジアでの経済活動の一端を裏付ける確証を得ることができた。そのため山見沖海底遺跡の全容解明が今後必要となる。本格的な海底調査が行われるならば、小値賀島が歴史的、地理的に果たした重要な役割が水中考古学を通して海底から蘇るであろう。