第Ⅱ章 遺跡の立地と歴史的環境
1.遺跡の地理的歴史的環境
小値賀町は長崎県北松浦郡に属する。東経129度3分30秒、北緯33度12分30秒の交差点を中心として、五島列島の北部に位置し、小値賀島を中心とする16の小島と、2個の大岩礁からなっており、北は宇久島に7.5km、南は中通島に5.5km、東は九州本土に、西は東シナ海に臨む、東西23km、南北10kmの地域である。小値賀町の中心である小値賀島は、面積12.95k㎡、宇久島の約半分の大きさながら、低平で小面積の割には丘が多い。これは鮮新世における大陸系玄武岩類の火山活動によるもので、直径100m~1000mで、海面上に高度100m足らずの小火山島が互いに結合してできた火山島群からなっており、そのため低高度・広面積の特異な形状を示す島となったものである。したがって地質学上では、上五島岩系の玄武岩から分化の進んだ安山岩の広い範囲をもっている。なお洪積世に火山活動が行われた宇久島、野崎島は安山岩類が主であるが、現世に火山活動がおこなわれた小値賀島は、すべて玄武岩類である。また、小値賀島の地形は、中央部に海抜104mの番岳があり、西方、北東方、南東方には火山の噴出によって生じた丘陵がある。さらに平坦ながら海岸線の出入りが多く、東方には自然の良港である前方港、南方には小値賀港がある。土層は深いものの高山や森林に乏しいため、水源には恵まれておらず、水田は少なく畑作が主である(1)。
この小値賀島に人類の足跡を辿ってみると、その遡源は旧石器時代に見ることができる。最終氷期の最寒冷気には100mほどの海道が推定されるが、その等深線で陸化した五島列島は九州本土と陸続きとなり、長崎県北部と同じように人類活動の痕跡を見ることができる。特に列島最北の宇久・小値賀島には遺跡が集中している。これは風化土壌の形成が弱いこと、さらには黒曜石原産地と距離的に近いことが関係している(2)。小値賀町ではオオサコ遺跡(同町斑島郷字中田)から、朝鮮半島に源を発する2万5千年前の剥片尖頭器が出土しており、ヌゲ遺跡(小値賀町納島郷納島)、玉石鼻遺跡(同町斑島郷字斑島)、などからも旧石器を散見することができる(3)。
縄文時代に入ると、大型魚の漁労具と考えられる石鈷状の尖頭器(後期)や、有茎石錯(後期前葉)といった刺突用具を出土する殿崎遺跡があり、環対馬海域の海浜遺跡における漁労採集のありようを見ることができる(4)。また、小値賀島の東方2.5kmにある、野崎島の野首遺跡は、平成2年から同5年にかけて多目的ダム建設に伴なう緊急発掘調査が実施され、縄文前期から中世にいたる約40万点にのぼる資料が得られた。特に縄文土器は轟式・野口式・阿多式・曽畑式・並木式・阿高式系・船元式・西平式・黒川式・山ノ寺式など縄文時代の各時期の土器類や、大形磨製石斧、小形定角磨製石斧、垂飾品、?状耳飾、十字形石器などが出土した(5)。また、小値賀島と斑瀬戸と呼ばれる150mの海峡を挟んで位置する斑島の目崎遺跡からは、縄文早期の田村式と呼ばれる山形・格子・楕円の各押型文や、薄手の粗製無文の土器群が出土する。さらに隣接する岩陰遺跡のハモキ遺跡からは、早水台式の山形押型文土器が出土することから、縄文早期段階で、九州本土と切り離された状況にあった当該地域は、九州本土との間を「舟」により往来し、交流があったことを物語る貴重な証として注目される(6)。 農耕文化の流入は、当該地の墓制にも変容をもたらした。小値賀島と250mの海峡を挟んで南側に位置する黒鳥には弥生時代から古墳時代に及ぶ神ノ崎遺跡がある。同遺跡は昭和57年に発見され、翌58年に発掘調査がなされた。遺構は30基あり、このうち精査が行われた8基のうち2基が弥生時代、2基が古噴時代に属し、残り4基は所属時期を特定する遺物が検出されなかった。弥生時代の遺構は板石積石棺・箱式石棺であり、支石墓の外観をもつ遺構も存在する。また、板付Ⅱ式の碧棺破片が出土していることから、弥生時代前期終末にはこの墳墓群が成立していたことがうかがえる。特に20号石棺は、長軸1.55m、幅1.06mと同時期の石棺と比しても大型の箱式石棺であり、棺材は数十キロ離れた別の島の砂岩の切石4枚を使用している。また埋葬は最低5人で、従前の被葬者の頭骸骨のみを最終被葬者の枕元に集めた感じを受けるという。また、朝鮮半島南部の伽耶地方の板状鉄斧2点や、ヒスイ製丁字頭勾玉など42点の玉類が副葬されていた。こうした弥生時代の埋葬遺構では、弥生前期半ばの板付Ⅱ式の土器を伴う石棺や、中期前半の棄棺が出土した殿寺遺跡(小値賀町前方郷相津)、板付Ⅲa古段階の小壺を伴った地下式板石積石棺墓や弥生中期城ノ越式の壺型土器片などを伴う板右図い璧棺墓が検出された笛吹遺跡(小値賀町笛吹郷字小渕)などがある(7)。古墳時代に入ると五島列島では稀有である2つの古墳が築かれている。その一つ水の下古墳(小値賀町笛吹郷字水ノ下)は、小値賀島中央の番岳から東南に伸びる舌状台地の先端部、標高15m、海岸から50mに築造された7世紀代の横穴式古墳であるが、既に墳丘も原形を失っており、周囲も削平を受けていた。出土遺物は平瓶、横瓶、台付直口瓶など須恵器10点、碗、皿など土師器3点、鉄器数片が検出された。もう一つの神万古墳(小値賀町前方郷相津)も、封土は流失し周囲が削平されており、羨道部と玄室下部の一部を残すのみであるが、出土した須恵器の編年から、6世紀代の横穴式石室をもつ15m前後の円墳であったことが推定されている。また、先述した神ノ崎遺跡からは古墳時代の地下式板右横石室墳が確認されている。この墳墓形式は隼人の墓ともよばれ、熊本県南西部から鹿児島県北西部にみられる地域性のつよいもので、これら地域外での確認例は、この神ノ崎遺跡と佐世保市官の本遺跡、有川町浜郷遺跡、宇久町松原遺跡の4例のみである。なお、31号石棺の周辺からは5世紀中頃の「縄庸文土器」と呼ばれる伽耶系陶質土器の破片20点が出土しており、先ほどの20号石棺出土の伽耶地方産板状鉄斧と考え合わせると、朝鮮半島との間に盛んな交流があったことがうかがえる(8)(9)。
中国大陸の先進文化を摂取しようと派遣された遣唐便の船団は、大宝2年(702年)から、それまでの北路と呼ばれた朝鮮半島西部沿岸ルートから、五島列島・南島経由の南島路に変更される。ちょうど時を同じくして、慶雲元年(704年)には小値賀島前方郷近浦にあった地の神島神社から、相対する野崎島に奇魂を分詞して沖の神島神社が創建され、延暦15年(796年)には浄善寺が創建されている。これらは大陸までの安全航行を祈願するために重要であっただけでなく、飲料水や食糧の補給地としても重要であったに違いない。すなわち五島列島に遣唐使船が寄港した場所は、宇久島、相子浦、合蚕の田の浦、庇良島、美弓爾良久といわれており、現在それらの比定地は、相子浦が青方に、合蚕の田の浦が久賀島の田の浦と対岸の奥浦湾に、美禰良久が三井楽にそれぞれ推定されているが、宇久島は宇久町の神ノ浦港が考えられるという。これらの地域には7世紀末から8世紀末にかけて、6つの神社すなわち、福江島の地主大神宮(695年)白鳥神社(698年)大津妙見社(701年)、日ノ島の横須賀熊野社(701年)、小値賀島の地の神島神社と沖の神島神社、奈留島の奈留島神社(9世紀前半)と、2つの寺、福江島の大宝寺(701年)と小値賀島の浄善寺(796年)が創建されていることからも、航路上の要衝に位置する良港を鎮守する目的があったことが何える(10)。
小値賀島中村地区には、11世紀後半から12世紀初頭にかけて築かれたと思われる膳所城跡がある。昭和61年の調査で、西部に大規模な空掘や、城内に大小の土塁、井戸跡、掘立柱の柱穴が確認され、11世紀後半から16世紀代の中国製陶磁器や、14世紀から15世紀代の朝鮮製陶磁器が確認された。なお、松浦氏が五島列島に勢力を伸ばす以前に、こうした城館を構えた勢力としては、宇野御厨荘(北松浦郡から南松浦郡にいたる大荘園)の内五島列島の荘官であった清原氏が想定される。清原氏は1152年、清原是包の高麗船への海賊行為により失脚し、その後、小値賀島は明治時代にいたるまで約700年にわたって松浦氏が支配することとなった。なお、小値賀島の唐見崎には山塊全体を要塞化した本城岳城跡があり、こちらは昭和60年の確認調査で、石墨の根石、空堀、帯郭、石敷、段築といった城郭遺構が確認されており、中世松浦党に関わる遺跡と推定されている(11)。
日本海沿岸から玄海灘、沖縄諸島にかけて広い分布を示す中世船舶の停泊用具である碇石は、小値賀島周辺からこれまでに6本が引き揚げられており、いずれも中国沿岸部で確認されている角柱型に整形されたものである。平戸市松浦史料博物館所蔵の「平戸瀬戸筋図」(享保3年・1718年)に示された外国船来航航路によれば、唐船は小値賀島を通って五島灘に入り、平戸島の西を通って南下し、長崎に至るルートが、また、中国船以外の夷国船は、五島列島の南方海上を東進し、長崎に至るルートが示されている。こうした史料から、唐船の当該地来航は、比較的頻繁におこなわれていたことが推測され、碇石もこれら中国交易船を物語る資料として注目される。なお、平成4年には前方郷唐見崎の通称「山見」沖から、16世紀~17世紀初頭のタイ国ノイ川窯系の陶器など6点が引き揚げられており、これら舶載陶器の存在も碇石の検出と合わせて、当該地における外来文化との接触を雄弁に物語るものといえよう。
註2
- 小値賀町郷土誌(16頁~21頁) 小値賀町教育委員会 昭和53年
- 原始・古代の長崎県(通史編)(174頁)長崎県教育委員会 平成10年
- 小値賀島史の概要 (5頁~6頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学平成12年
- 原始・古代の長崎県(通史編)(266頁・275頁)長崎県教育委員会 平成10年
- 町内遺跡分布調査Ⅰ 小値賀町文化財調査報告書第5集1985年
- 神ノ崎遺跡 小値賀町文化財報告書第4集1984年
- 原始・古代の長崎県(資料編Ⅰ)(614頁~627頁)長崎県教育委員会 平成10年
- 原始・古代の長崎県(資料編Ⅰ)(628頁~632頁)長崎県教育委員会 平成10年
- 小値賀島史の概要(19頁~20頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学 平成12年
- 小値賀島史の概要(22頁~24頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学 平成12年
- 小値賀島史の概要(27頁~29頁)塚原博 長崎ウェスレアン短期大学 平成12年
2.山見沖海底遺跡
小値賀島は北東部に東へ距離にして約1.8km突き出た小さな半島がある。この半島の付け根は南北両側から海岸が迫り、幅が約100mの狭い陸地橋を形成している。ここから東へ行くと徐々に標高を上げ、その頂は標高111.3mの本城岳となる。本城岳の北側は切り立った崖となり、陸地の先端は急激に海へ落ちる。南側は緩やかな傾斜から陸地は海岸へ至る。1km程東になると、半島の地形は南の前方湾へ折れ曲がり、その付け根に唐見崎の浅い入り江がある。この人り江は南側に溶岩が海へ流れ出した玄武岩の岩塊によって作り出されたものである。北および南東からの季節風を避けるに適した地形となっているため唐見崎港はこのように地理的環境下で港の整備が進んできた。唐見崎港には小規模の造船業もあるが、現在は造船より船の修理などが主な仕事となっている。
唐見崎から東へ直線にして約400mで半島の先端に至る。半島の先は溶岩が海へ流れ出し、玄武岩の岩塊が周辺の海岸線を形成している。玄武岩の岩塊はさらに海底へと断続的に延びてゆき、海底に砂地の場所と岩塊の場所を作り出している。山見沖海底遺跡の北側の海岸には陸地より海へ張り出した岩塊があり、昭和初期の小値賀島の海図にはその場所が「潮上セ」となっている。この潮上瀬は岩塊が海面上に姿を現し、満潮時には姿を消す。このような瀬は岸に近い場所にあるため、現代の船にとっては航行の妨げにはならないが、古代より近代まで船がその動力を風や擢に頼っていた時代では季節風や潮流によってはこの岩礁は厄介となったであろう。海図に載っていないとなればさらに危険度は増すことになる。また遺跡の南にも陸地から突き出た「膚見崎鼻」があり、付近の海には干潮時にも海面に現われない暗岩が多くある。このような海域は船の航行にもっとも危険な場所である。
半島の先端から約1.6km海で隔てた東に野崎島がある。半島と野崎島の間の水路は九州本土と五島列島を結ぶ定期船の航路にもなっていて、船の航行が盛んである。この水路は最も深い場所で水深29mを超えない。海の底質は砂もあるが、殆ど岩である。そのためこの付近の海域の漁は底引き網の漁ではなく刺し網漁あるいは海士による潜水漁となる。
山見神海底遺跡の海底は玄武岩の岩塊が砂地の海底に散在している水深の浅い場所に立地している。水深5mの等深線は海岸から約200m沖にあり、船舶の航行に危険な浅い海が沖合いまで続く。潮流は大潮時に1.5ノットと激しく、透明度はあるものの潜水は困難である。今剛毎底で確認した遺物はすべて岩塊の隙間や岩塊と砂地との境、あるいは岩塊が周りを囲んでできた狭い砂地の中で発見された。遺跡周辺の砂の堆積は薄いため、海底にあった遺物も海底下深く埋没することは考えられない。多くの遺物は海底面に露出した状態で現在に至っている。その間、彼の作用などで遺物の表面はかなり摩滅している。今回の調査では陶磁器類のみが回収されているが、これら以外の遺物がこの遺跡には存在するのか、遺跡の性格を決める上でも今後も山見神海底の調査が必要となるであろう。